凛子さんと迎える朝は、いつだって柔らかい光に満ちていた。
隣で穏やかな寝息を立てる彼女の頬に触れるたび、この温もりが永遠に続けばいいと心から願った。
大家さん夫婦の温かい理解を得て、俺たちはこの場所で、確かに「生活」を築き始めていた。
凛子さんが俺より16歳年上だなんてこと、もはや日常の中では意識することも少ない。
ただ、愛する「凛子」が隣にいてくれる。
それだけで、俺の毎日は輝いていた。
大学とバーのアルバイト。
忙しい日々だったけれど、疲れて部屋に帰った時に、
彼女の「おかえり、修太」という声を聞くだけで、すべて報われる気がした。
玄関で交わす口付けは、俺たちにとって欠かせない儀式のようになっていた。
今日の出来事を労い、お互いの存在を確認し合う、甘くて大切な時間。
触れ合うたび、体の奥がじんわりと熱くなる。
だけど最近、凛子さんの様子がどこか違うと感じることが増えた。
ふとした瞬間に遠くを見つめていたり、俺のいない時に一人で何か考え込んでいたり。
俺が「どうしたの?」と聞くと、いつもの笑顔で
「ううん、なんでもないよ」
と答えるけれど、その奥に言葉にできない不安が隠されているような気がした。
ある夜、リビングでテレビを見ていた時のことだ。
CM中に俺が顔を近づけると、彼女は一瞬、ビクッと小さく体を強張らせた。
「……どうしたの、凛子さん?」
「ううん、なんでもないの。ただ、ちょっとびっくりしただけ」
毎日こうして触れ合っているのに、なぜ?
俺の頭の中には疑問が浮かんだが、それ以上追及するのはやめた。
夜、ベッドの中で肌を重ねている時も、以前とはどこか違っていた。
時折、俺の背中に回した彼女の手が、何かから逃れるように、あるいは縋るように震えているのを感じることがあった。
その震えが、俺の心の中の快感を、わずかに不安の色に染めていった。
凛子さんは何も言わない。
だけどその体の反応が、言葉以上に多くのことを物語っている気がした。
「凛子さん……」
俺は彼女の髪を梳きながら、甘く囁いた。
「愛してる……誰よりも、凛子さんのことが大切だよ」
俺の言葉に、彼女は何も答えなかった。
ただ、俺の胸に顔を埋め、ギュッと抱きついてくる力が強くなった。
その腕の中の震えには、切ない感情が混じっているようだった。
月明かりがカーテンの隙間から差し込み、凛子さんの白い肌を淡く照らしていた。
その肌に触れるたび、ぞくりとした感覚が走る。
彼女の華奢な体に指先を滑らせ、その柔らかな感触を確かめていく。
「んっ……あぅ……」
甘い吐息が漏れる。
だけど、その声の奥に潜む切なさが気になって、俺は心から集中できなかった。
露わになった彼女の胸に顔を埋め、愛おしむように吸い付く。
「やぁ……っ……もっと……」
甘えた声で促す彼女に、俺は丁寧に応え続けた。
彼女の体から伝わってくる熱と震えが、俺を支配していく。
そのまま、ゆっくりと下へ降りていく。
腹部、そして太ももの内側。
柔らかな肌に口付けるたび、彼女の体が小さく跳ねる。
指先がしっとりと熱を帯びた場所に触れると、そこは俺を受け入れるように開いていった。
「んぁっ……! ひっ……」
甘い悲鳴。指を忍ばせ、奥へと進める。
ぬるりとした感触と、凛子さんの蕩けるような声。
「しゅうた……っ……きもちいい……っ……」
俺は衣服を脱ぎ捨て、彼女の体の間に割り込んだ。
肌と肌が触れ合い、熱が混ざり合う。
だけど、二人の間には見えない壁があるような気がしてならなかった。
ゆっくりと、彼女の中に入り込んでいく。狭く、温かい。
自分の一部が凛子さんと一体になる。
その感覚はいつだって至高のものだが、今回は快感とともに、切ない痛みが伴っていた。
「ぁ……っ……! ん……っ……」
動き始める。ゆっくりと、そして激しく。
ベッドが軋む音、肌が打ち合う音。
そのすべてが、二人の間の見えない壁を強調しているかのようだ。
「凛子さん……気持ちいい……?」
問いかけても、彼女はただ甘い喘ぎ声を漏らすだけ。
答えは返ってこない。
激しさを増す動き。汗が飛び散り、息遣いは荒くなり、喘ぎ声は絶叫へと変わっていく。
「ぁあ……っ……くる……っ……しゅうた……イク……っ!」
凛子さんの体が硬直した。
俺も限界だった。
「凛子さんっ!!」
二人の体が同時に弾ける。
熱い奔流が彼女の中に流れ込む。
その一瞬、俺たちは一つになれた気がした。
しかし、余韻が冷めるにつれて、見えない壁が再び立ちはだかる。
凛子さんは何かを隠している。
それは内面的で、個人的な、癒えない傷のようなものか。
彼女の寝顔を見つめながら、俺は静かに誓った。
何があっても、凛子さんのそばにいる。
彼女がいつか心を開いてくれるまで、どんな苦悩も一緒に受け止める。
この光を、失わないために。
だけど俺はまだ知らなかった。
この夜感じたかすかな不安が、やがて俺の心を完全に引き裂く悲劇の前兆に過ぎないことを。
凛子さんの心に影が差していることは、俺にとって、日増しに無視できないものとなっていった。
どんなに優しく接しても、愛情を示しても、彼女の心の奥にある扉は固く閉ざされたままだった。
俺のいない間に一人で重いものに耐えているような気配。
帰宅した俺を見ると、無理に作ったような笑顔を見せる。
そのたびに、俺の胸は締め付けられた。
「凛子さん、無理しないで。疲れているなら休んでいいよ」
そう言って肩を抱き寄せても、彼女の体は強張ったままだった。
「ううん、大丈夫。修太こそ、いつもありがとうね」
その感謝の言葉すら、定型文を返されているようで、俺には遠いものに聞こえた。
彼女が苦しんでいるのを傍で見ていることしかできない無力感が、俺の心を深く傷つけた。
時折、凛子さんが俺の将来について話すことがあった。
「修太ならきっといい会社に入れるよ」
その言葉には、どこか「他人事」のような響きが含まれている気がして、俺は戸惑った。
「俺の未来は、凛子さんと一緒の未来だよ。大学を卒業したら、凛子さんを幸せにするんだ」
そう言うと、彼女は悲しいような表情で微笑むだけだった。
そんな状況の中で、俺は密かにある計画を進めていた。
俺の覚悟を形にして示したい。そのためにはお金が必要だった。
俺は凛子さんに黙って、工事現場やイベント設営など、きつい単発のアルバイトを掛け持ちした。
凛子さんの喜ぶ顔を想像すれば、いくらでも頑張れた。
そうして必死に貯めたお金で、俺は結婚指輪を買った。
シンプルなプラチナのリング。
小さなベルベットの箱に収められたそれを握りしめると、未来が現実のものとして感じられた。
卒業式の日にこれを渡そう。彼女の抱えるどんな悩みも、俺たちの愛なら乗り越えられると信じてもらおう。
ある夜、いつも以上に塞ぎ込んでいる凛子さんの隣に座り、俺は語りかけた。
「お願いだから話してほしい。何をそんなに苦しんでいるの?」
「……修太……ごめんね」
また謝罪の言葉。
「謝らなくていい。ただ、辛さを俺にも分けてほしいんだ」
俺が握った彼女の手は冷たかった。
彼女は俺の手を握り返すことなく、静かに言った。
「修太……私ね、自信がないの。修太の隣にいる資格が、私にあるのか分からない」
資格……?
凛子さんは一体何を言っているんだ。
「私は一度結婚に失敗しているし、もう若くない。修太の輝かしい未来を、私のような人間が邪魔してはいけないんじゃないかって……」
年齢差や過去の失敗。
そんなこと、俺にとっては取るに足らないことだ。
「そんなこと、どうでもいい! 俺は、凛子さんの過去も年齢も全部含めて、凛子さんが好きなんだ!」
俺は力説したが、彼女の表情は悲しげなままだった。
「ありがとう、本当に嬉しい。でもね……」
言葉を飲み込んだ彼女の沈黙が、たまらなく怖かった。
その夜、俺たちは体を重ねた。
けれど、それはいつものような情熱的なものではなく、どこか冷たく悲しいものだった。
服を脱がせながら伝わってくるのは、熱ではなく冷たさだった。
「凛子さん……」
名前を呼んでも反応はない。
露わになった彼女の胸に顔を埋めても、以前のような甘さはなく、空虚な気配が漂っていた。
愛撫をしても、彼女の体は快感ではなく寒さに凍えているかのように震えていた。
「ん……っ……」
小さな吐息。俺が強く求めても、彼女はただ何かに耐えるように体に力を入れているだけだった。
「凛子さん、気持ちいい?」
問いかけても返事はない。
暗闇の中で彼女の瞳は、俺ではなくどこか遠い場所を見つめていた。
肌にキスを落としても、そこに魂がないかのように反応しない。
指先で触れた彼女の場所も、しっとりと湿ってはいたが熱は感じられず、ただ冷たい空間があるだけだった。
俺は彼女に覆いかぶさり、中へと入り込んでいった。
狭いけれど、以前のような締め付けられる快感はない。
ただ空虚な空間に、俺の体が吸い込まれていくようだった。
「ぁ……っ……!」
それは悦びの悲鳴ではなく、息を呑む音だった。
動き始めても、彼女の体は自らの意志ではなく、ただ俺に揺さぶられているだけだった。
俺の荒い息遣いだけが響き、彼女の喘ぎ声は聞こえない。
激しく腰を動かしても、熱は感じられず、虚しい音だけが響く。
快感はどこにもなく、空虚感だけが全身を駆け巡った。
「凛子さんっ!!」
熱い奔流が彼女の中に流れ込んだ瞬間、彼女の体はわずかに震えただけだった。
俺は彼女の体の上で荒い息を繰り返した。
心は絶望でいっぱいだった。
凛子さんの心はもう、ここにはない。
どこか遠くへ行ってしまった。
俺が体を引き離すと、彼女はシーツの中に顔を埋め、細い肩を小さく震わせていた。
どれだけ体を重ねても、もうその心を取り戻すことはできない。
無力感と、彼女を失うという予感に、俺の心はバラバラになりそうだった。
大学生活最後の数週間は、夢の中を彷徨っているようだった。
会話は減り、触れ合うこともなくなった。
俺は卒業式の準備を進めながら、鞄の奥に隠した指輪の箱を握りしめていた。
これを渡せば、きっと分かってくれる。そんな叶わない希望に、俺はしがみついていた。
そして、迎えた卒業式の日。
大学の体育館は、華やかな雰囲気に包まれていた。学友たちの笑顔。先生たちの祝福の言葉。
だけど、俺の心は、ここになかった。早く帰って、凛子さんに会いたい。凛子さんに、この指輪を渡したい。
卒業証書を受け取り、友人たちと写真を撮り、最後の別れを告げる。
みんな、それぞれの未来へと歩き出す。
俺の未来は、凛子さんと共に始まるはずだった。
胸ポケットに入れた、指輪の入った小さな箱を握りしめる。
その硬い感触が、俺に勇気をくれた。
大丈夫。きっと大丈夫だ。
凛子さんも、待っていてくれる。
高鳴る心臓を押さえながら、俺は大学を後にした。
一刻も早く、凛子さんの元へ。
アパートまでの道が、こんなにも長く感じられたことはなかった。
角を曲がるたびに、凛子さんの姿が見えるのではないかと期待する。
凛子さんは、俺の卒業を祝ってくれるだろうか?
卒業式の話を聞いてくれるだろうか?
アパートの前に着いた。
いつもの見慣れた風景。大家さんの家の庭に咲く花。
凛子さんと共に過ごした部屋の窓。そこからは、何も気配がしない。
「ただいま、凛子さん!」
ドアを開けた時の、あの静寂。
アパートに帰り着き、「ただいま、凛子さん!」といつものように声をかけたのに、
部屋から何の返事も、物音もしなかった時、俺の心臓は嫌な音を立てた。
玄関には、凛子さんの靴がない。
リビングは、ひっそりと静まり返っている。
部屋を見回しても、彼女の姿が見当たらない。
「凛子さん…?どこにいるんだ…?」
そう呟いた声が、誰もいない部屋に虚しく響いた。
胸騒ぎが止まらない。
寝室へ駆け込む。ベッドの上は、俺が出ていった時のままだ。
だけど、凛子さんが毎日使っていた化粧ポーチがない。クローゼットを開ける。
中に並んでいるのは、俺の服だけだ。凛子さんの服が、なくなっている。
頭の中が真っ白になった。体が震え始める。
まさか。そんなはずない・・・。
凛子さんが、俺を置いて出ていくなんて・・・。
卒業式の日に。
俺が、凛子さんとの新しい未来を始めようと、希望に胸を膨らませて帰ってきた今日という日に。
リビングに戻ると、テーブルの上に一通の封筒が置いてあるのが目に入った。
白い封筒に、俺の名前。凛子さんの、見慣れた文字。
それは、まるで知らない誰かが書いたかのように、遠く感じられた。
震える手で、その封筒を手に取る。
指先が、冷たい紙の感触を捉える。
心臓が、耳鳴りのようにドクドクと鳴っている。
恐る恐る、封筒を開ける。
中には、一枚の便箋が入っていた。
凛子さんの、いつもの便箋だ。
だけど、そこに書かれている文字は、俺が知っている凛子さんの優しさとは、全く違うもののように見えた。
便箋を開き、そこに書かれた文字を目で追う。
『修太へ
突然、ごめんなさい。こうして、手紙で伝えることしかできなくて、本当にごめんなさい。
私は、今日、ここを出ていきます。
修太の隣にいると、私は、自分がまだ誰かに必要とされている、価値のある人間だと感じることができました。
優しくて、真っ直ぐな修太に、どれだけ救われたか、言葉では言い尽くせません。
あの日、怪我をした私を優しく抱きしめてくれて、匿ってくれたこと。
そして、私の過去も、何もかも全てを、その大きな体で受け止めてくれたこと。
来る日も来る日も、私を求め幾度となく身体を重ね、私をいつも愛してくれたこと。
全てが、私にとって宝物です。
でも、考えれば考えるほど、怖くなったの。
修太の未来を、私が縛り付けてしまうのではないかって。
修太は、まだこれから、たくさんの可能性を秘めた若い人。
大学を卒業して、新しい世界に飛び込んでいく修太の隣に、私のような、傷だらけで、もう若くもない人間がいては、修太の輝きを曇らせてしまうのではないかって。
分かっています。
修太は、年齢なんて関係ない、私の過去も受け入れてくれるって言ってくれた。
その気持ちは、本当に嬉しかった。修太の優しさに、どれだけ泣かされたか分かりません。
その気持ちに、甘えようとも思った。
だけど、私自身が、自分を許せなかった。
過去の自分から、どうしても逃れることができなかった。
時々、思うの。あの頃の、どうしようもない私を知っている人に、今の修太の隣にいる私を見られたら、どんな顔をされるだろうって。
修太に、恥ずかしい思いをさせてしまうんじゃないかって。
私には、修太のような、光そのもののような人の隣にいる資格なんてない。
修太が眩しすぎて、私の暗い部分が、余計に浮き彫りになってしまう気がして。
だから、離れることが、修太のためだと、そう思ったの。
私がそばにいる限り、修太は、私の過去の影に囚われてしまう。
私から離れて、修太には、もっと修太にふさわしい、明るい未来を歩んでほしい・・・。
本当にごめんなさい。
あなたを傷つけてしまうことは、分かっています。
でも、これが、私に残された、最後の精一杯の愛情表現なんです。
きっと、すぐに私のことなんて忘れて、新しい出会いを見つけるでしょう。
あなたなら、たくさんの人に愛される。
さようなら、修太。
私を好きになってくれてありがとう。
私を愛してくれてありがとう。
あなたに愛されて、私は幸せでした。
凛子』
便箋を読み終えた俺の手から、紙が滑り落ち、床にひらひらと舞った・・・。
書かれている内容が、頭の中で反芻される・・・。
凛子さんが、俺を置いて、出ていった。俺の未来のために・・・。
俺には、凛子さんの隣にいる資格がないから。
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
違う。違う!違う!違う!何を言っているんだ、凛子!俺の未来は、あなたと一緒にいることなんだ!
あなたがいない未来なんて、何の意味もないんだ!
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。床に落ちた便箋を拾い上げ、何度も、何度も読み返す。
書かれている文字が、涙で滲んで、よく見えない。
「うそ…だろ…?」
声にならない声が漏れる。目の前が歪む。息ができない。胸が、焼け付くように痛い。
(俺のため…?これが、愛情…?)
そんなはずない。これは、俺を捨てるための理由だ。俺を、見捨てるための、言い訳だ。
母さんが、俺を置いていった時と同じだ。
俺のためだと、言われたわけじゃない。
だけど、「もう、お前はいらない」と言われたのと同じだ。
俺は、また捨てられたんだ。心から愛した人に・・・。俺の全てを捧げた人に・・・。
卒業式の、晴れやかな一日。希望に満ちた未来。その全てが、音を立てて崩れ去っていく。
凛子さんの荷物がない、がらんとした部屋。そこに響く、俺の嗚咽だけが、現実を突きつけてくる。
胸ポケットを探る。固い感触。指輪の入った小さな箱だ。それを握りしめる。
凛子さんに渡そうと、必死でバイトして、勇気を出して買った、この指輪。これがあれば、きっと凛子さんも…
箱を開ける。光を受けて、指輪が小さく輝いている。
こんなもの、何の意味があるんだ。渡す相手は、もう、ここにいない・・・。
「あああ…ああああああああああああああああああああああああっ…!!」
声にならない絶叫が、喉の奥から込み上げてくる。
頭を抱え、床にうずくまる。涙が止まらない。
悔しくて、悲しくて、情けなくて、どうしようもない感情が、俺の全身を支配する。
天井を見つめながら、俺は問いかける。
部屋は薄暗く、カーテンを引いたままの窓からは、かすかな光だけが差し込んでいる。
どれくらいここで横になっているのだろう。時間の感覚が完全に失われていた。
「俺は、誰かを幸せにすることなんてできないのか・・・」
声に出して言った言葉が、空虚な部屋に響く。
枕は涙で湿り、シーツは何日も変えていないせいで生乾きの匂いがする。
凛子が出ていってから、もう一週間が経っていた。
いや、八日か。もう数えるのも馬鹿らしい。
携帯電話の着信履歴には、バイト先からの不在着信が十数件。
メールボックスには心配のメッセージが溜まっている。けれど、返す気力もなかった。
「くそっ…」
床に散らばった便箋の破片が目に入る。
あの日、凛子が残していった別れの手紙だ。読み返すたびに胸が引き裂かれるような痛みを感じ、ついには引き裂いてしまった。
それでも痛みは消えない。
「俺が愛する人は、俺の前からいなくなってしまうのか・・・」
ピンポーン!
突然のインターホンの音に、俺は身体を強張らせた。
無視しようとしたが、しつこく鳴り続ける。
「修太くん、いるんだろ?ドアを開けてくれ」
低い、少し荒れた声。店長の伊藤さんだった。
「…」
応答せずにいると、今度はドアを叩く音が響いた。
「修太、心配してるんだ。何日も連絡が取れないし、バイトにも来ない。何かあったのか?」
その言葉に、なぜか涙が溢れてきた。
誰かに心配されるというのは、こんなにも痛いものなのか。
「修太!」
重い体を引きずるようにして、俺はドアに向かった。
鍵を開け、少しだけドアを開ける。
「よう、修太」
店長の伊藤さんは、いつものジーンズに黒のTシャツ姿だった。
そこに立つ姿が、なぜかひどく現実離れして見えた。
「…すみません」
それだけ言って、俺は顔を伏せた。言葉が出てこない。
「入って、いいか・・・?」
頷くと、伊藤さんは靴を脱いで玄関に上がった。
部屋の惨状を見て、一瞬目を見開いたが、何も言わずにリビングに腰掛けた。
「何日飲んでない?食べてない?」
問いかけに、俺は肩をすくめた。覚えていない。
「修太、何があった・・・?」
その優しさが、堰を切ったように俺の感情を溢れさせた。
「凛子が…出ていったんです」
声が震える。喉が痛い。
「そうか…」
伊藤さんは深く息を吐いた。
その目には、理解と同情が浮かんでいた。
「全部、話してみろ・・・」
言葉少なに促され、俺は全てを話した。
凛子との出会い、幸せだった日々、そして突然の別れ。
話しながら、また涙が溢れてきた。情けない。でも止められない。
伊藤さんは黙って聴いていた。時おり頷き、時に眉をひそめる。
「わかった・・・」
全て話し終えると、伊藤さんはポケットからタバコを取り出した。
「吸っていいか?」
頷くと、伊藤さんはライターで火をつけ、深く煙を吸い込んだ。
「・・・修太。お前はここにいちゃダメだ」
「・・・え?」
「この町に、この部屋に、思い出が詰まりすぎてる。離れるんだ、しばらくは・・・」
煙を吐きながら、伊藤さんは言った。
「でも、どこに…」
「俺の知り合いが、四国でberをやってるんだ。人手が足りないって言ってた」
窓の外を見つめながら、伊藤さんは続ける。
「新しい土地、新しい空気。今のお前には、それが必要だ」
その言葉が、俺の胸に染みた。逃げるのか?いや、違う。新しい始まりなのだ。
「伊藤さん…」
「考えるな。荷物をまとめろ。明日、俺が駅まで送っていく」
迷いを見せる俺に、伊藤さんは強く言った。
「修太、お前は弱くない。今は傷ついてるだけだ。時間がかかる。でも、傷は必ず癒える」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
翌朝、最低限の荷物だけをリュックに詰め、アパートを出た。
凛子にあげるはずだった指輪も置いてきた。
振り返ると、小さなベランダが見えた。あそこで凛子と星を見たこともあった。胸が痛む。
「行くぞ」
伊藤さんの車に乗り込み、駅に向かった。四国行きの切符が、既に手配されていた。
「ありがとうございます」
プラットホームで、俺は深く頭を下げた。
「礼はいい。元気になって戻ってこい」
伊藤さんは少し照れたように後頭部を掻いた。
「それと、これ」
差し出されたのは、一冊のノートとペンだった。
「行った先で、思ったことを書いてみろ。気持ちの整理になる」
列車が近づいてくる音が聞こえてきた。
「行ってきます。伊藤さん」
「ああ、気をつけてな」
列車に乗り込み、窓から手を振る。伊藤さんも小さく手を上げた。
列車が動き出す。街の景色が、ゆっくりと流れていく。
胸の中には、まだ凛子への思いがある。痛みもある。でも、今は前を向く時なのだ。
四国へ向かう列車の中で、俺は伊藤さんからもらったノートを開いた。
最初のページに、ペンを走らせる。
『新しい始まり』
それが、俺の旅立ちだった。