県外の大学への進学は、俺にとって文字通りの「新天地」だった。
実家という名の監獄から逃げ出すための、唯一にして最大のチャンス。
アルバイトで必死に貯めた30万円を握りしめ、俺は希望を胸にこの街にやってきた。
事前に契約しておいた格安アパートは、
大学からほど近い場所にある。
大家さんへの挨拶は、期待以上に温かいものだった。
一軒家に住むご夫婦は、人の好さそうな笑顔で俺を迎えてくれた。
「県外から来たんだろ?困ったことがあったら何でも言いなさい」
その一言が、どれだけ俺の心を軽くしてくれたか。
この街での新しい生活は、きっと大丈夫だ、そう思えた。
アパートの古めかしい扉をガチャリと開ける。
ギィィィー・・・
情けない音を立てて開いた先は、まるで昭和の映画セットのような光景だった。
がらんとした何もない部屋。
ここが、これから俺の「家」になる場所。
冷たい畳の感触が、現実を突きつける。
それでも、この何もない空間こそが、俺自身の力で作り上げていく未来の基盤になるのだと思うと、不思議と心が躍った。
(まずは、生活に必要なものを揃えなければ・・・)
アパートの鍵を閉め、近くを散策に出かけた。
県道が近いおかげか、ファストフード店、ドラッグストア、レンタルビデオ店、コインランドリー、リカーショップ、スーパー・・・一通りの店は揃っている。
その中で、俺の目を引いたのはホームセンターだった。
「おっ!ホームセンターがある」
家電も家具も何もないこの部屋で生活を始めるには、まずそれらが必要不可欠だ。
意気揚々と店内に入ったものの、並んでいる商品の値段を見て、俺はすぐに現実を突きつけられた。
冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、テーブル、ソファー…
全部揃えようとすると、この俺の心許ない30万円では到底手が届かない価格帯だ。
「まずい…この価格で揃えると、30万では予算がキツすぎる…」
早くも難関が立ちはだかった。
途方に暮れそうになったその時、脳裏に一つのアイデアが閃いた。
(一か八か・・・やるしかない・・・!)
俺はサービスカウンターへ向かった。
「すみません。店長さんいらっしゃいますか?」
「いかがされましたか…?」
「いえ、ちょっと相談したいことがあるんです。なので、店長さんとお話したいんです」
「少々・・・おまちください」
スタッフさんが館内放送で店長を呼び出してくれた。
現れた店長は、優しそうな顔をしている。
俺は意を決して、事情をすべて説明した。
そして、不良在庫になっている商品があれば、多少ボロでも構わないので、格安で売ってほしいと頼み込んだ。
「そうゆうの、やってないんですが…」
店長の申し訳なさそうな言葉に、俺は最後の手段に出た。
その場で土下座し、頭を床につけた。
「そこを何とか!お願いします!!」
「お客様、止めてください」
慌てて俺を起こそうとする店長に構わず、
俺は土下座を続けた。
まるで米つきバッタのように頭を上下させ、必死に懇願した。
ざわ・・・ざわざわ・・・
俺の土下座に気づき、店内に居たお客さんが次第に集まってくる。
「了承していただくまで、止めません!お願いします!人助けと思って!」
「・・・。わかりましたから、頭を上げてください」
根負けした店長は、俺の願いを聞き入れてくれた。
バックヤードに案内されると、そこには埃をかぶった家電や家具が所狭しと並んでいた。
「正直、長期間放置しているのもあります。家電は動作確認をしていません。全て見本品なんで、まずは、動作確認をしてから選んでください」
借りた延長ケーブルで一つ一つ動作確認をしていく。
ほとんどが動かなかったが、奇跡的に冷蔵庫と洗濯機の二つが動いてくれた。
「店長さん。この2つが動きました」
「やっぱ、昔の家電は強いね。じゃ、2つで35000円でいいよ。そのかわり自分で運ぶんだよ」
「ありがとうございます!」
店長にリアカーを借り、
お金を払って冷蔵庫と洗濯機を載せた。
その時、店長が俺に声をかけた。
「君。これも持っていきなさい」
そう言って、電子レンジとちゃぶ台をリアカーに載せ始めたのだ。
「あの、これは…」
「これは、僕からの入学祝いだよ。学校、頑張るんだよ」
店長の温かい心遣いに、俺は涙が止まらなかった。
この街に来て初めて触れた人の優しさだった。
家に持ち帰った家具家電を配置し、ようやく最低限の生活ができる環境が整った。
今日はもう疲れたから、とりあえず寝よう。
寝具はないので、畳にゴロンと寝転がる。
持ってきたカバンを枕に、俺は深い眠りについた・・・。
それから数日かけて、俺は必要なものを少しずつ揃えていった。
寝具は大家さんが使っていない布団を譲ってもらい、食器類は100円ショップで買いそろえた。
自転車は、自転車屋さんで市から引き取った放置自転車を格安で手に入れることができた。
地方のそこそこ田舎では、自転車は生活必需品だ。
予定外の出費だったが、これも仕方がない。
「よし!これでとりあえずは生活が出来る…」
すべての準備が整ったのは、入学式の前日だった。
明日は入学式。今日は早めに切り上げよう。
新しい生活への期待に胸を膨らませながら、俺は寝床に着いた。
入学式も無事に終わり、クラスの学友とも挨拶を済ませた。
その場のノリで仲良くなった男女10人と、近くの中華料理チェーン店でご飯を食べながら、色々な話をして盛り上がった。
大学生活のスタートは順調な滑り出しだった。
同時に、生活費を稼ぐためのアルバイトも始めた。
実は、アルバイト先は入学前からすでに決まっていた。
高校時代にお世話になった店長の知り合いが、この街の飲み屋街でberを経営しており、その店を紹介してもらったのだ。
「君が修太君だね。店長の伊藤です」
「よろしくお願いします」
「学校とアルバイトの両立は大変だろうけど、頑張るんだよ」
「はい!ありがとうございます」
昼は学生、夜はバーでアルバイト。
二足の草鞋を履く生活が始まった。
正直、体力的にキツい部分もある。
だが、実家にいた頃の地獄に比べれば、こんなもの何でもない。
すべてが自分のために使う時間と労力。
そんな当たり前のことが、当時の俺には何よりの幸せだった・・・。
大学生活が始まって一か月ほど経ったある日曜日。
部屋で洗濯物を畳んでいると、インターホンが鳴った。
ピンポーン…!
「はーい」
(誰だろう・・・?友達かな?)
玄関を開けると、そこに立っていたのは、
見知らぬ一人の女性だった。
ズキァーーーン!!
(き、キレイだ・・・)
その姿を見た瞬間、全身に電流が走った。
一目惚れ。
生まれて初めての、強烈な衝撃だった。
綺麗にウェーブのかかった艶やかな長い髪。
抜群のプロポーション。
目を奪われるような豊かな胸とお尻。
そして、清楚でありながらもどこか妖艶な雰囲気を醸し出す顔立ち。
そのすべてが、俺の視線を釘付けにした。
「こんにちは」
必死に冷静を装いながら、俺は尋ねた。
「はい…。どちら様でしょうか…?」
「今日から、隣に引っ越してきた田中って言います。引っ越しのご挨拶に伺いました」
(隣…?そういえば、大家さんが隣は空いていると言っていたな・・・)
「あぁ、そうでしたか。ご丁寧にどうもありがとうございます」
「もしかして・・・学生さん?」
「はい。新井修太って言います。一か月程前に引っ越してきたばかりです。」
「そうなのー。じゃ、お隣さん同士よろしくね」
ニコッと笑う彼女に、俺の心はまたしても打ち抜かれた。
その笑顔は、この世のどんな宝石よりも輝いて見えた。
「これ。つまらないものだけど」
差し出された紙袋には、クッキーが入っていた。
「あ、ありがとうございます」
受け取った紙袋から、ふわりと甘い香りが漂う。
その時、近くから男の声が響いた。
「おーい!りこー!」
「あなたー、すぐ行きますー」
目の前の女性が、その声に答えた。
(りこさんて言うんだ。この人…)
初めて知った彼女の名前に、胸がきゅっとなる。
「ごめんなさい。主人が呼んでるので、この辺で」
「わざわざ、ありがとうございました」
りこさんが踵を返し、歩き出した時、
軽やかな柑橘系の香りが辺りに立ち込めた。
爽やかなのに、どこか甘く、艶っぽい香り。まるで、彼女自身のような香りだった。
(いい香りだ…)
俺は、この時、初めて女性を好きになった。
田中りこさん。
この女性が、後に俺の心により深い傷をつける人になるとは、この時の俺は微塵も思っていなかった。
ただただ、彼女という存在に、強く惹きつけられていた。
この先、彼女との間に何が待っているのか。
期待と不安が入り混じった複雑な感情が、俺の胸を満たしていた。
そして、この出会いが、俺の大学生活、
いや、人生そのものを大きく揺るがすことになるなど、想像すらしていなかった…。