
深夜、スマホの画面がぼうっと光を放った。通知がある。
こんな時間にメッセージを送ってくる相手なんて、ほとんどいない。特に、女性からは。
アプリの通知。俺は少しだけ指先に力を込めた。
開くと、待ち望んでいた名前があった。
「Miyuki」
先日マッチングしたばかりの女性だ。プロフィール写真は柔らかい雰囲気で、確か、俺と同じように激務に追われている、一つ年下の看護師さんだったはずだ。
「今日も一日お疲れ様でした。伊藤さんも、大変な一日でしたか?」
シンプルだけど、心のこもった一言だった。38年間生きてきて、こんな風に、ただ労ってくれるメッセージが、これほど胸に響くものだとは知らなかった。
営業という仕事柄、常に気を張っていないといけない。社内でのプレッシャー、顧客からの無理難題。疲弊しているなんて、誰にも見せられない。
結婚もせず、ただひたすらに仕事だけをしてきたこの毎日に、漠然とした空虚感を感じ始めていた頃だった。
そんな時、登録してみたのがこの出会い系サイトだった。正直、最初は冷やかし半分だったが、今では彼女とのメッセージのやり取りだけが、唯一、肩の力を抜ける時間になっていた。
「渡辺さんも、夜勤ですか?本当に毎日お疲れ様です。大変な一日でしたが、今、渡辺さんのメッセージで癒やされました。」
すぐに返信を打つ。画面の向こうにいる彼女も、きっと同じように疲れているんだろう。32歳で看護師。俺の想像以上に、過酷な日々を送っているはずだ。
「ふふ、私もです。伊藤さんとメッセージしてると、ホッとします。この仕事、体力も精神力もいるから…ついつい弱音吐きたくなっちゃうんですよね。」
「分かります。僕も営業で、いつも気を張ってるので…。渡辺さんの、患者さんに寄り添う仕事、本当にすごいと思います。僕にはできないことだから。」
「そんなことないですよ。伊藤さんの頑張り、メッセージからすごく伝わってきます。お互い、大変な仕事だけど、頑張りましょうね。」
メッセージのやり取りは、あっという間に毎日の習慣になった。仕事の合間、移動中、そして深夜。彼女からのメッセージ通知が来るたびに、心が浮き立つ。
たわいもない日常の話、仕事の愚痴、抱えている不安。顔も知らない、声も聞いたことのない相手に、これほど心を開けるなんて、自分でも驚きだった。
彼女もまた、俺と同じように、どこか孤独を抱えているのだろうか。メッセージの言葉の端々から、そんな気配を感じ取っていた。
「あの…もしよかったら、一度お会いできませんか?お話ししてみたいです。」
ある夜、彼女から来たメッセージに、俺の心臓は大きく跳ね上がった。
会いたい。
その気持ちは、自分でも気づかないうちに、メッセージのやり取りを始めた頃より、ずっと大きくなっていた。
「ありがとうございます!ぜひ!僕も、渡辺さんに会いたいと思っていました。いつがご都合いいですか?」
即答した。多忙な俺と、不規則なシフトの彼女。会える日を調整するのは簡単じゃなかったが、お互いにどうにか時間を作ろうと努力した。
最初のメッセージから一ヶ月ほど経った頃、ようやく約束を取り付けられた。その日まで、俺は落ち着かなかった。
画面の中の「Miyuki」が、どんな声で、どんな風に笑うのか。期待と少しの緊張で胸がいっぱいだった。
そして約束の日。都内とは思えないほど落ち着いた雰囲気のバーを選んだ。待ち合わせの時間より早く着いてしまい、ソワソワしながら入口を見つめる。
そこに、彼女が来た。写真よりもずっと華奢で、でも看護師という仕事で培われたであろう、芯の強さのようなものが感じられる女性だった。
「伊藤さん、初めまして。渡辺美幸です。」
「伊藤隆です。メッセージではお世話になりました。」
俺の声が、少し上ずったのが分かった。目の前にいる彼女は、想像していたよりもずっと魅力的だった。会話が始まる。仕事の話、趣味の話。
メッセージで話していた内容を、実際に声に出して話すのは、不思議なくらい新鮮だった。彼女が笑うたびに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
限られた時間だからこそ、この瞬間を大切にしたいという思いが募る。彼女も同じように感じているのだろうか。このまま、この貴重な夜を終わらせたくない。
グラスに残った琥珀色の液体を見つめながら、意を決して口を開いた。
「美幸さん…今日は、本当に楽しかったです。メッセージだけじゃ分からない、渡辺さんの素敵なところにたくさん触れられて…」
美幸が、少し驚いたように俺を見る。その瞳は、バーの照明を受けてきらきらと光っていた。
「私もです、隆さん。隆さんとこうして直接お話しできて、すごく安心しましたし…もっと、話したいなって思いました。」
「俺もです。もっと、話したい…いや、もっと、知りたいです。美幸さんのこと…全部…」
声が、少し掠れた。テーブルの下で、俺の指先が微かに震えている。彼女も、きっと俺と同じような気持ちのはずだ。
こんな風に、二人きりで向き合っていると、メッセージでは感じられなかった、何か特別な感情が湧き上がってくるのを感じる。
「あの…突然、変なこと言うなって思うかもしれないんですけど…」
息を呑んだ。彼女の目が、じっと俺を見つめている。ここで、引いてはいけない。多忙な日常の中で、二度とないかもしれないこのチャンスを逃したくない。
「まだ、時間…大丈夫ですか?もう少しだけ、一緒にいてほしい、です。場所を…変えませんか?」
最後の「場所を変えませんか?」という言葉に、力を込めた。美幸は何も言わず、ただじっと俺の目を見つめていた。沈黙が、やけに長く感じる。
緊張で、喉がカラカラになった。もし、ここで断られたら…また、元の孤独な毎日に逆戻りか。そんな考えが、頭をよぎる。
美幸の小さな唇が、ゆっくりと開かれた。
「…はい。私も…まだ帰りたくないです。隆さんと、もう少し…一緒にいたいです。」
その言葉を聞いた瞬間、全身から力が抜けるのを感じた。同時に、内側から熱いものが込み上げてくる。彼女も同じ気持ちだったんだ。俺の誘いを、受け入れてくれた。
バーを出て、少し夜風に吹かれながら歩いた。
外の冷たい空気が、熱くなった体に心地良い。並んで歩く彼女との距離が、妙に近く感じる。歩く拍子に、彼女の指先が俺の手に触れた。ゾクッとした。まるで全身に電流が走ったみたいだ。彼女も、少し息を呑んだのが分かった。
どちらからともなく、自然に手が繋がった。俺の、少しゴツゴツした、営業で使い込んだ手の中に、彼女の柔らかく、でもどこかタフさを感じさせる指が絡まる。
離したくない、と思った。
このまま、この温もりを、もっと深く感じたい。
彼女の部屋に着くと、緊張感が漂った。心理的な距離が縮まり、お互いの想いが通じ合った瞬間だった。
「あの…その…」
美幸が頬を赤らめて、言葉を詰まらせる。その仕草に、心臓が高鳴った。
「大丈夫…怖くないよ…」
優しく声をかけ、彼女を抱きしめた。華奢な体が俺の胸に触れる。温かな温もりと鼓動が伝わってくる。
「ううん…怖くない…私も…隆さんと…」
美幸の声が震えている。彼女の顎をそっと持ち上げ、潤んだ瞳を見つめた。その瞳には、期待と少しの不安が混ざり合っていた。
二人の唇が重なり、時間が止まったような感覚に包まれた。優しいキスから始まり、少しずつ情熱的になっていく。彼女の温もりに触れるたび、これまでの孤独が癒されていくのを感じた。
夜が深まるにつれ、二人の距離はさらに縮まり、言葉では表現できない深い絆で結ばれていった。心と心が通じ合い、お互いを完全に理解し合った瞬間だった。
「あなたと出会えて、本当に良かった…」
美幸の囁きが、暗闇の中で響いた。その言葉に、これまで感じていた虚しさが、一気に満たされていくのを感じた。
朝日が差し込む部屋で、隣で眠る彼女の寝顔を見つめながら、俺は思った。
もう、独りじゃない。
多忙な日常の合間に生まれた、この特別な時間。彼女との、この大切な関係。きっとこれから、俺たちの心に深く、そして鮮やかに刻まれていくのだろう。