季節は移ろい、春の訪れを感じさせる日が続いていた。暖かな日差しが、窓から差し込み、部屋の中を明るく照らす。友子さんと一緒にいる時間は、俺にとって、何よりもかけがえのないものになっていた。彼女の笑顔を見るたびに、俺の心は満たされ、不安や焦燥感から解放されていく。まるで、色鮮やかな花々が咲き誇るかのように、俺の人生に新しい色彩が加わった。彼女の存在は、俺の日常に、光と喜びをもたらしてくれたのだ。
ある日の午後。友子さんの部屋で、二人でソファーに並んで座り、NETFLIXを見ていた。他愛のない会話をしながら、友子さんは俺の肩に頭を預け、俺は彼女の柔らかな髪を指で梳いた。彼女の吐息が、俺の首筋をくすぐり、全身が温かくなる。そんな穏やかな時間が、俺にとっては何よりも贅沢だった。部屋の中には、友子さんのお気に入りのアロマディフューザーから漂う、ほんのり甘い香りが満ちていて、その香りが俺たちの空間を一層心地よいものにしていた。
映画の途中で、友子さんが、ふと顔を上げた。その瞳が、俺の目をじっと見つめる。
「ねえ、健吾くん」
友子さんの声は、いつもより少しだけ真剣な響きを帯びていた。俺の心臓が、微かに跳ねる。何か、大切な話があるのだと直感した。
「ん?」
俺は、彼女の視線を受け止め、先を促した。その表情には、ほんの少しの緊張と、大きな決意が入り混じっているように見えた。
「私ね、この仕事、辞めようと思うんだ」
その言葉に、俺は息を呑んだ。彼女の口から、まさかそんな言葉が出るとは思っていなかったからだ。驚きと同時に、胸の奥に温かいものが込み上げてくるのを感じた。それは、彼女が俺との未来を真剣に考えてくれているという、何よりの証拠だったからだ。一瞬、言葉が出なかった。俺の脳裏には、初めて彼女の職業を知った時の衝撃と、それでも揺るがなかった俺の気持ちが鮮やかに蘇る。彼女が、その過去から抜け出そうとしている。その事実が、俺の心を大きく揺さぶった。
「…本当に?」
俺の声は、震えていた。喜びと、信じられないという気持ちが入り混じっていた。思わず、彼女の細い肩にそっと手を添える。
友子さんは、小さく頷いた。その瞳には、不安の色もあるけれど、それ以上に、未来への希望が輝いているように見えた。その光は、まるで春の陽光が水面に反射するかのようだった。
「うん。健吾くんと、もっとちゃんとした関係になりたいって、思ったから」
彼女の言葉に、俺は何も言えなかった。ただ、友子さんの身体を強く抱きしめることしかできなかった。俺の腕の中で、友子さんの身体が小さく震える。その震えは、喜びと、そして、新たな一歩を踏み出すことへの緊張からくるものだろう。彼女の細い腕が、俺の背中に回され、ぎゅっと抱きしめ返された。その確かな温もりが、俺の決意をさらに強くする。
「ありがとう…友子さん…本当にありがとう…」
俺は、彼女の耳元で、何度もそう繰り返した。俺の声も、感情の昂ぶりで少し震えている。この温かい温もりを、もう二度と手放したくない。この人と、ずっと一緒に生きていきたい。そんな確かな感情が、俺の胸に込み上げてきた。彼女の柔らかな髪が、俺の頬をくすぐり、甘い香りが俺の五感を満たす。
友子さんが仕事を辞めて、新しい生活を始める準備を始めた。俺も、少しでも彼女の力になりたいと、アルバイトのシフトを増やしたり、就職活動に本腰を入れたりした。二人の未来のために、俺にできることは何でもしたかった。大学の講義を終えると、すぐにアルバイト先へ向かい、閉店まで働く。疲労は感じたが、友子さんの新しい一歩のためだと思うと、不思議と力が湧いてきた。夜遅く帰宅すると、友子さんの部屋から漏れる明かりを見て、心が安らぐ。彼女が隣にいる、それだけで、俺の心は満たされた。
友子さんは、毎日、新しい仕事を探したり、これまでの整理をしたりと、忙しそうにしていた。慣れない職務経歴書の作成に頭を悩ませたり、面接の練習で緊張したりする姿を、俺は傍で見守った。時には、うまくいかずに落ち込む彼女を、俺はそっと励ました。「大丈夫だよ、友子さんならできる」「俺がついてるから、焦らなくていいんだよ」と、彼女の背中を優しく撫でながら、俺の言葉が少しでも彼女の力になることを願った。そんな彼女の姿を見るたびに、俺は、改めて友子さんの強さと、そして、俺への愛情を感じていた。彼女が、俺との未来のために、これほどまでに奮闘してくれているのだと実感し、俺の胸は熱くなった。
ある日の夕食時。俺の部屋で、友子さんが作ってくれたハンバーグを食べていた。相変わらず、少し焦げ付いているけれど、その一つ一つに、友子さんの愛情が込められているのが分かった。不格好な形も、ほんのり焦げ付いた香ばしさも、すべてが愛おしく感じられた。俺は、そのハンバーグを一口食べ、満面の笑みで友子さんを見た。
「うん!美味しい!」
俺の言葉に、友子さんは、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、俺にとって、何よりも最高の調味料だった。彼女の表情が、パッと明るくなる。
「本当?よかった…」
友子さんの声には、安堵の色が混じっていた。彼女は、自分の作った料理を、俺が心から喜んでくれていることを、まるで自分のことのように喜んでいるようだった。
「うん!友子さんの作る料理、本当に好きだよ。焦げ目も香ばしくて最高!」
俺は、心からの言葉を伝えた。少し大げさに言ったが、嘘偽りのない本心だった。彼女は、少し照れたように俯いたが、その表情には、確かな幸せが浮かんでいた。その頬が、ほんのりピンク色に染まっている。温かい空気が、俺たちの間を流れた。
そんな穏やかな日々が続き、友子さんが仕事を辞める日が、刻一刻と近づいていた。新しい門出を祝うような、晴れやかな気持ちと、少しの寂しさが入り混じっていた。彼女が、新しい場所で、新しい生活を始めることに、期待と不安が入り混じる。これまで彼女が背負ってきた重荷が、ようやく解放される。そう思うと、俺も心から嬉しかった。同時に、これまでのように毎日彼女に会えなくなる寂しさも、少しだけ感じていた。それでも、彼女の新しい人生の始まりを、心から応援したい気持ちでいっぱいだった。
そして、友子さんが最後の出勤を終えた日の夜。俺は、彼女の部屋で、ささやかなお祝いの準備をしていた。ささやかながらも、友子さんが好きな甘口のワインと、彼女が一番好きな白いバラの花束を用意した。部屋の中には、かすかにバラの甘い香りが漂っている。彼女が帰ってくるのを待つ間、俺の胸は、期待と緊張で、激しく高鳴っていた。まるで、初めてのデートの待ち合わせをしているかのような、胸の高鳴りだ。
ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。友子さんが、帰ってきたのだ。俺の心臓が、大きく跳ね上がる。
「ただいま…」
友子さんの声は、少しだけ疲れているようだった。しかし、その声には、どこか解放されたような、清々しい響きが混じっていた。まるで、長年背負っていた重い荷物を下ろしたかのような、そんな安堵感が声に滲み出ている。
「おかえり!友子さん!」
俺は、友子さんの元へ駆け寄り、彼女を抱きしめた。彼女の身体からは、微かに、仕事の匂いがする。しかし、それは、もう終わりを告げる匂いだった。彼女の背中に回した腕に、その細い身体の温かさが伝わる。
「お疲れ様。よく頑張ったね」
俺は、彼女の耳元でそう囁いた。彼女の髪に頬を寄せると、シャンプーの香りの奥に、まだ微かに残る、あの独特の香りがした。それは、彼女のこれまでの努力と、闘いの証なのだと、俺は思った。
「ありがとう…健吾くん…」
友子さんは、俺の腕の中で、そう呟いた。その声は、震えていたけれど、その震えは、もう迷いではない。新しい未来への希望に満ちた、温かい震えだった。彼女の腕が、俺の背中に回され、強く抱きしめ返された。その力が、俺の心に、彼女の感謝と愛情を深く刻み込む。
俺たちは、互いの存在を確かめ合うように、強く抱きしめ合った。部屋の明かりが、俺たちの新しい門出を、優しく、そして暖かく照らし続けていた。この瞬間から、友子さんの新しい人生が始まる。そして、俺たちの愛も、ここからさらに深く、強いものになっていくのだと、確信した。
夜は更け、月明かりが窓から差し込む。俺たちは、寄り添ってソファーに座り、ワインを傾けた。友子さんは、グラスを片手に、少しだけ顔を赤らめている。その瞳は、いつになく穏やかで、幸福に満ちていた。
「ねえ、健吾くん」

友子さんが、そっと俺の名を呼んだ。
「ん?」
「私、幸せだよ」
彼女の言葉は、たったそれだけだったけれど、その一言に、全ての感情が込められているのが分かった。俺も、彼女の言葉に、心から頷いた。
「俺もだよ、友子さん。俺も、本当に幸せだ」
俺は、友子さんの手をそっと握り、指を絡めた。彼女の指は、少しだけ冷たかったが、俺の指が触れると、すぐに温かくなった。二人の手が、まるで互いを求め合うかのように、自然に繋がった。
これから先、どんな困難が待ち受けているかなんて、俺には分からない。それでも、友子さんと一緒なら、どんなことでも乗り越えられる。そう強く信じられた。彼女の隣にいることが、俺にとっての最大の幸福だった。
窓の外では、春の風が、そよぎ始めている。新しい季節が、新しい始まりを告げているようだった。俺たちは、これからも二人で、手を取り合って、未来を歩んでいく。その確かな予感が、俺の胸に、温かい光を灯した。