季節は、雪消月。2月とはいえ、まだまだ寒さが堪えるころ。澄み切った冬の空気に、時折、春の兆しのような柔らかな風が混じる。あの夜の出来事から、俺と友子さんの関係は、目に見える形で変化していった。隣人という肩書は、いつしか「恋人」という甘く、そして温かい響きを持つ言葉へと変わっていた。
ある日、いつものように健吾の部屋に友子さんが訪ねてきた。夕暮れ時、居酒屋のアルバイトから戻り、簡単な夕食を済ませていた俺の部屋のドアが、ノックされた。トントン、と小気味よい音が、俺の心臓を軽く跳ねさせる。
「はーい」
ドアを開けると、そこに立っていたのは、いつものように控えめに微笑む友子さんだった。部屋着の上から薄手のカーディガンを羽織り、髪はラフに一つにまとめられている。そのシンプルな姿が、かえって彼女の持つ自然な美しさを際立たせていた。微かに香るシャンプーの匂いが、俺の鼻腔をくすぐる。
「どしたん?」
俺は、少しだけ驚きながら尋ねた。彼女が、こんな時間にアポなしで俺の部屋に来ることは珍しい。いつもは、LINEで連絡を取り合ってから、どちらかの部屋を行き来することが多かったからだ。
「ごめんね。上がっていい?」
友子さんの声は、いつもより少しだけ、か細い気がした。その表情には、どこか不安げな色が浮かんでいる。俺は、彼女の異変を感じ取り、心配になった。
「もちろん、どうぞ」
俺は、すぐにドアを大きく開け、彼女を部屋の中へと招き入れた。友子さんは、小さく「お邪魔します」と呟くと、ゆっくりと俺の部屋へと足を踏み入れた。玄関で靴を脱ぐ彼女の姿は、いつもの艶やかな雰囲気とは少し違って、まるで幼い子供のようにも見えた。その細い肩が、どこか頼りなく見えた。
友子さんは、俺の手を引くようにして、リビングのソファーに腰かけた。彼女の指先は、ひんやりとしていて、その感触に、俺の不安は募る。ソファーに深く沈み込むように座った彼女は、両手を膝の上でぎゅっと握りしめていた。その仕草に、俺はただならぬ雰囲気を感じ取った。彼女の視線は、ずっと足元に向けられたままだ。
「あのさ…ちょっといい?」
友子さんが、視線を落としたまま、そう切り出した。声は、先ほどよりもさらに小さく、消え入りそうだった。まるで、口に出すことさえ躊躇しているかのような、微かな震えが混じっている。
「何?」
俺は、彼女の隣に座り、不安げな表情で友子さんの顔を覗き込んだ。彼女の顔色は、どことなく青白い。部屋の照明が、その青白さを一層際立たせている。
「ちょっと話したいことがあって…」
友子さんは、震える声で言った。その言葉に、俺の心臓はドクンと大きく鳴った。何か、重大なことなのだろうか。嫌な予感が、胸の奥でざわめく。まるで、冷たい水が心臓に注がれるかのような感覚だった。
「話したいこと?」
俺は、優しく問いかけた。彼女を急かすことなく、ただ、彼女が話し出すのを待った。友子さんは、一度大きく息を吸い込み、そして、ゆっくりと吐き出した。その表情には、決意と、そして、深い悲しみが入り混じっていた。
「うん…」
友子さんは、ついに顔を上げた。その瞳は、潤んでいて、まるで今にも涙が溢れ出しそうだった。その中に、微かな諦めのような色が見えた気がした。俺は、何も言わずに、ただ彼女の言葉を待った。
「実は…、ですね…」

友子さんは、言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。その声は、震えていたけれど、どこか覚悟を決めたような響きを持っていた。俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。全身の神経が、彼女の次の言葉に集中する。
「はい」
俺は、静かに促した。彼女の次の言葉を、固唾をのんで待つ。
「あの…、バレンタインを…」
友子さんは、そこで一度言葉を切った。彼女の視線が、俺の手に向けられる。俺は、何も言わずに、ただその視線を受け止めた。
「うん」
俺は、小さく頷いた。バレンタイン。もうすぐ、その季節が来る。
「作ったんです」
その言葉に、俺は、少しだけ驚いた。友子さんが、俺のために何かを作ってくれたのだろうか。俺の心に、温かい光が差し込んだような気がした。彼女の健気な気持ちが、ひしひしと伝わってくる。しかし、彼女の表情は、依然として暗いままだった。
「はい」
俺は、期待を込めて、次の言葉を待った。
「けど…」
友子さんの声が、また震えだした。彼女の指が、ぎゅっと握りしめられる。その仕草に、俺の胸は、再びざわめき始める。まるで、何かの悪い知らせを聞かされる前の、不穏な静けさのような感覚だ。
「けど…?」
俺は、思わず、身を乗り出した。一体、何があったというのだろうか。
「なんせ、私、目玉焼きしか焼けないでしょ?」
友子さんは、自嘲気味に、そう言った。その言葉に、俺は少し笑ってしまった。確かに、以前、料理の話をした時に、彼女はそう言っていた。でも、それがどうしたというのだろう。彼女が、そんなことを気にする必要はないのに、と心の中で思った。
「うん」
俺は、優しく頷いた。
「だから、大失敗しちゃったの」
友子さんは、はぁ、と小さくため息をつき、肩を落とした。その表情は、まるで大切なものを壊してしまった子供のように、深く落ち込んでいる。自責の念が、彼女の顔に影を落としているのが見て取れた。顔を伏せた彼女の髪が、微かに揺れる。俺のために一生懸命努力してくれたのだろう、と考えると、胸が締め付けられた。その健気さが、俺の心を強く打った。
「うん」
俺は、友子さんの背中をそっと撫でた。柔らかなカーディガンの感触が、指先から伝わる。その優しさが、彼女に届くことを願った。
「でもさ…、あげたいなって、思って…」
友子さんは、顔を上げた。その瞳は、潤んでいたけれど、その奥には、確かな想いが宿っていた。俺のために、一生懸命作ってくれたのだ。その気持ちだけで、俺は十分すぎるほど嬉しかった。どんなに不器用なものでも、彼女が俺を思って作ってくれたという事実が、俺の心を温かく満たした。
「うん」
俺は、力強く頷いた。彼女の作ったものが、どんなに失敗作であったとしても、俺にとっては、何よりも大切なものになるだろう。その価値は、誰にも測れない。
「色々…、考えて…」
友子さんは、言葉を詰まらせながら言った。その視線は、俺の顔と、そして、彼女の膝の上に置かれた手に、交互に向けられている。彼女の指が、何かを握りしめているのが見えた。小さな、四角い包みだ。それが、彼女の精一杯の気持ちなのだろう。
「ええ…」
俺は、彼女の言葉の続きを待った。一体、何を考えて、どんな結論に至ったのだろうか。その小さな包みに、俺の視線は釘付けになる。胸の高鳴りが、さらに速くなる。
「私が…、バレンタインじゃだめですか…?」
友子さんが、震える声で、そう囁いた。その言葉が、俺の耳に届いた瞬間、俺の全身に、甘い衝撃が走った。俺は、一瞬、自分の耳を疑った。彼女は、今、何と言った?バレンタインに、自分自身を俺に贈ろうとしているのか?その言葉の奥に込められた、彼女の深い想いと、そして、不安が、俺の胸を締め付けた。彼女は、きっと、自分の職業と、これまでの過去に負い目を感じているのだろう。だから、形あるチョコレートではなく、自分自身を差し出すことで、俺への想いを伝えようとしている。しかし、その言葉は、俺にとって、何よりも甘く、そして、切ない告白だった。
俺の心臓は、激しく波打ち、全身の血が、一瞬にして頭に上った。まるで、熱いシャワーを浴びたかのような感覚だ。俺は、友子さんの顔を、まじまじと見つめた。その瞳は、俺の返事を待つかのように、不安と期待で揺れ動いていた。彼女の頬は、微かに赤く染まっている。
「いいよ。じゃ…いただきます」
俺は、迷うことなく、そう答えた。俺の声は、震えていたけれど、その言葉には、確かな愛情と、そして、彼女の全てを受け入れる覚悟が込められていた。彼女の職業も、過去も、今の俺には、何の意味も持たない。俺が欲しいのは、目の前にいる、この川野友子さんそのものなのだから。俺は、彼女の職業が何であろうと、彼女の過去がどうであろうと、関係ない。俺が愛しているのは、彼女の魂であり、その全てなのだ。
その言葉を聞いた瞬間、友子さんの表情が、ゆっくりと、しかし確かな光を帯びていくのが分かった。不安で歪んでいた顔が、安堵と、そして、純粋な喜びで満たされていく。彼女は、何も言わずに、俺の胸に飛び込んできた。柔らかな身体が、俺の身体に密着し、彼女の甘い香りが俺を包み込む。
「健吾くん…」
友子さんの声が、俺の胸元で小さく震えた。それは、泣いているというよりは、感情の高まりで声が出ない、といった風だった。震える声には、救われたような、心からの感謝が込められているのが分か
った。俺は、彼女の頭を優しく抱きしめ、その柔らかな髪に頬を寄せた。彼女の体温が、俺の身体にじんわりと染み渡り、温かい幸福感が全身を包んだ。
少し、早めのバレンタインを貰った俺。それは、形あるチョコレートなんかよりも、ずっと甘く、そして、重い贈り物だった。お互いの愛を確かめ合いながら、俺たちは、幸せな日々を過ごしていた。友子さんの部屋で、時には俺の部屋で、共に時間を過ごすたびに、俺たちの絆は深まっていった。言葉にならない温かさが、常に俺たちの間には流れていた。