恋愛ストーリー

もう一度、君と歩むために 第五章:別れの予感と抗う心

愛の声は、震えながらも、はっきりと俺の耳に届いた。

「でも、私……聡さんと、このままじゃいけないって思うの」

その言葉が、俺の心臓を鷲掴みにした。まるで、鋭いナイフで切り裂かれたかのような痛み。俺は、その場で凍り付いてしまった。カフェのざわめきが、遠い幻のように聞こえる。俺と愛の間に、透明な壁が立ち上がったような気がした。その壁は、分厚く、そして冷たい。

「……どういうことだよ、愛ちゃん」


俺の声は、掠れていた。握りしめた愛の手は、ひどく冷たかった。まるで、今までの温かい繋がりが、全て幻想だったかのように。俺の指先が、その冷たさに痺れる。
愛は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。その瞳は、俺への申し訳なさと、そして、何かを覚悟したような決意に満ちていた。その覚悟の光が、俺の心をさらに深く抉る。


「私ね……内定をもらった会社、すごく頑張りたいの。これから、社会人として、もっと色々なことを経験したい。新しい自分になりたいって、強く思ってる」


愛の言葉は、まるで俺の胸に突き刺さる鋭い刃のようだった。彼女の瞳の奥に、希望と、そして、俺には届かない未来が輝いているのが見えた。その眩しさに、俺は目を逸らしたくなった。彼女の未来は、明るく、輝いている。しかし、その輝きの中に、俺の姿はなかった。


「それは……良いことじゃないか。おめでとう、愛ちゃん。俺も、愛ちゃんの夢、応援してるよ」


震える声で、絞り出すように言った。喉が詰まり、息が苦しい。精一杯の笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉がひきつっているのが分かる。

愛は、静かに首を横に振った。その仕草一つ一つに、重い決意が込められているようだった。


「ありがとう。でもね、聡さん……私、聡さんのこと、嫌いになったわけじゃないの。もちろん、大好き。聡さんといると、すごく幸せだし、安心する。でも……」


そこで、愛の言葉は途切れた。彼女は、涙で言葉を紡ぐことができないようだった。その「でも」の後に続く言葉が、俺の心に重くのしかかる。それが、俺たちが直面している現実の壁だということは、痛いほど分かっていた。この「でも」という言葉に、俺たちの未来が全て詰まっているような気がした。


「でも、何だよ……」


俺は、愛の手を強く握りしめた。まるで、この手を離したら、全てが終わってしまうかのように。俺の手のひらが、愛の冷たい手から熱を奪い取ろうとする。

愛は、深い呼吸を一つすると、再び顔を上げて、俺の目を見つめた。その瞳は、涙で潤んでいたが、もう迷いはなかった。


「でも、私、このままだと、聡さんに甘えてばかりになっちゃう気がするの。聡さんは、いつも私のことを優しく受け止めてくれる。私の不安も、悩みも、全部聞いてくれる。でも、聡さん自身のことは……何も、言ってくれないじゃない」


愛の言葉に、俺はハッとした。胸を抉られるような感覚。確かに、俺は愛に心配をかけたくなくて、自分の将来への不安や、漠然とした焦りを、彼女にはほとんど話していなかった。いつも、明るく、頼りがいのある自分でいようと努めていた。それが、愛への優しさだと思っていたから。だが、それは、彼女から見れば、心を閉ざしているように見えたのかもしれない。


「それは……」


俺は、言葉に詰まった。言い訳のしようもなかった。彼女の言葉は、俺の弱点を正確に突いていた。


「聡さんは、いつも私のことを優先してくれる。それは、すごく嬉しいことだよ。でも、私、もう子どもじゃない。聡さんのことも、ちゃんと支えたいし、一緒に未来を考えていきたい。でも、聡さんが、まだ……その……未来について、明確なビジョンを持っていないことが、私には不安なの」


愛は、言葉を選びながら、ゆっくりと話し続けた。彼女の視線が、俺の不安定な「フリーター」という現状を、容赦なく突きつけてくる。それは、俺自身が目を背けてきた現実だった。その言葉の刃が、俺の心を何度も何度も切り裂いた。

「私ね、聡さんのこと、本当に大切に思ってるから。だからこそ、このままじゃダメだって、思うの。お互いにとって、もっと良い関係があるはずだって……。私は、もっと、聡さんと対等な関係になりたいの」


愛の言葉は、俺の耳に、別れを告げる言葉として響いた。胸の奥が、冷たい氷で覆われるような感覚だった。その冷たさが、全身へと広がっていく。


「……それは、俺と別れたいってことか?」


俺は、震える声で尋ねた。喉がカラカラに乾いて、声がうまく出ない。まるで、誰か、別の人間が喋っているかのようだった。
愛は、何も言わずに、ただ涙を流した。その沈黙が、全てを物語っていた。彼女の涙が、俺の心の痛みを増幅させる。

俺は、頭の中が真っ白になった。愛を失うかもしれないという恐怖が、全身を駆け巡る。今まで、愛の存在が俺の日常をどれだけ彩り豊かにしてくれたか。彼女がいない生活なんて、考えられなかった。彼女が俺の人生に与えてくれた光が、今、消えようとしている。


「そんなこと……そんなこと言うなよ、愛ちゃん。俺は、愛ちゃんがいないと……俺、愛ちゃんのために、何だってするから!変わるから!」


俺は、必死に愛の手を握りしめた。しかし、愛の手は、すり抜けるように、俺の手から離れていく。その感触が、俺の心に絶望を突きつける。


「ごめんね、聡さん。私、自分の気持ちに嘘はつけない。聡さんを傷つけたくないから……」


愛の言葉は、俺の心を深く抉った。彼女の優しさが、今は俺を傷つける。その矛盾が、俺をさらに苦しめた。俺は、愛の腕を掴み、離すまいとした。しかし、彼女の意思は、俺の手を振り払うほど強く、俺にはどうすることもできなかった。

カフェを出て、俺たちは無言で歩いた。街の喧騒が、ひどく遠く感じる。車のクラクション、人々の話し声、全てが意味を持たない雑音として、俺の耳を素通りしていく。愛の隣を歩いているはずなのに、彼女の存在が、どんどん遠ざかっていくような気がした。まるで、俺だけが取り残された世界を歩いているようだった。夕暮れが、空を赤く染め上げていた。その色が、俺の心を表しているようだった。燃え盛るような赤が、やがて冷たい紫へと変化していく。

愛のマンションの前で立ち止まる。いつもなら、ここで抱きしめ合い、別れを惜しむはずなのに、今日は違う。二人の間に、冷たい空気が流れる。風が、俺たちの間を吹き抜けていく。肌寒さを感じる。


「聡さん……」


愛が、小さく俺の名前を呼んだ。その声は、消え入りそうに細かった。別れを告げる声だと、本能的に理解した。


「愛ちゃん……もう一度、俺にチャンスをくれないか?俺、変わるから。本当に変わるから!愛ちゃんのために、もっと頑張るから!」


俺は、懇願するように言った。なりふり構わず、縋り付こうとした。愛は、少しの間、何も言わなかった。その沈黙が、俺の心をさらに深く不安にさせる。彼女の瞳には、まだ迷いが残っているようにも見えたが、その迷いは、俺の期待とは違うものだった。


「……聡さん。ありがとう。聡さんと会えて、本当に幸せだった。でも……私、もう決めたの。聡さんのことは、ずっと忘れない。だから……」


愛は、そう言って、俺から一歩後ずさった。その一歩が、二人の間に決定的な距離を生んだ。


「わかった……」


俺は、力なく頷いた。これ以上、何を言っても無駄だ。愛の決意は、固い。俺の言葉は、彼女の心に届かない。


「じゃあ……また、連絡するよ」


そう言って、俺は愛に背を向けた。一歩、また一歩と、愛の元から遠ざかる。後ろから、愛の「ごめんね、聡さん」という、絞り出すような声が聞こえた。しかし、俺は振り返ることができなかった。振り返れば、きっと、その場に崩れ落ちてしまうような気がしたから。足元が、ぐらぐらと揺れる。視界が、涙で滲む。

一人で帰る道は、ひどく長く感じられた。街の明かりが、俺の孤独を際立たせる。全ての光が、俺を嘲笑っているかのように見えた。今まで、愛と過ごしてきた時間の記憶が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。初めて会った日のこと、ゲームセンターで笑い合ったこと、水族館で手を繋いだこと、愛の家で温かい手料理を食べ、身体を重ねた夜の熱情……。全ての思い出が、俺の心を締め付ける。その甘い記憶が、今は毒のように俺の体を蝕む。

自分の部屋に着くと、俺は力なくソファに座り込んだ。部屋の中は、シンと静まり返っている。愛の香りは、どこにも残っていなかった。まるで、最初から何もなかったかのように。空っぽの部屋が、俺の心の空虚さを映し出している。俺は、スマホを手に取り、愛とのLINEの履歴を遡る。楽しかった会話、愛らしいスタンプ、そして、最後の「ごめんね」というメッセージ。現実が、容赦なく俺に突きつけられる。メッセージの文字が、歪んで見えた。画面の光が、俺の涙を照らす。

俺は、自分自身を責めた。なぜ、もっと早く気づかなかったのか。なぜ、愛の不安を、真剣に受け止めてやれなかったのか。なぜ、自分の将来と向き合おうとしなかったのか。後悔の念が、津波のように押し寄せてくる。フリーターとして、ただ漠然と日々を過ごしてきた自分。愛が未来を見据えて前進している中で、俺は立ち止まっていた。その差が、二人の関係に決定的な亀裂を生んでしまったのだ。

胸の奥に、深い穴が開いたようだった。愛を失った喪失感と、自分への不甲斐なさが、俺の心を蝕んでいく。この痛みは、いつになったら消えるのだろう。俺は、愛という光を失ったことで、再び暗闇の中に引き戻されてしまった。このまま、俺の人生は、何もなく終わってしまうのだろうか?あの日の問いかけが、再び頭の中で響く。「私に、しますか……?」しかし、その問いかけは、もう二度と繰り返されることはないだろう。俺の人生は、愛と出会う前よりも、さらに深い絶望の淵に突き落とされたかのようだった。

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