里奈と俺の関係は、肌を重ねることで、これまでとは比べ物にならないほど深く、確かなものになった。週末を一緒に過ごすのは当たり前になり、平日の夜も、里奈は頻繁に俺のマンションに泊まりに来た。彼女が部屋にいるだけで、冷たい部屋が温かい色に染まるようだった。
朝、目覚めると、隣には里奈の寝顔があった。柔らかな髪が枕に散らばり、わずかに開いた唇からは、規則正しい寝息が聞こえる。その寝息を聞いているだけで、俺の心は満たされた。朝食は、里奈が俺のために作ってくれる温かい味噌汁と、炊き立てのご飯。忙しい朝でも、俺の体調を気遣い、栄養バランスを考えた食事が食卓に並ぶ。湯気立つ味噌汁の香りが、部屋中に広がる。
「康介さん、今日は遅くまで仕事?」
里奈が、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「うん、ちょっと残業になりそうだ。里奈は?」
「私も定時だよ。先に帰って、夕飯作っておくね」
里奈の言葉に、俺は心から安堵した。疲れて帰った時に、温かい手料理が待っている。その事実だけで、一日の疲れが半減するような気がした。
俺たちは、お互いの仕事の愚痴を聞き合ったり、休日の計画を立てたり、他愛のない会話を交わした。俺の仕事の話を真剣に聞いてくれる里奈の姿は、俺の心の支えとなっていた。彼女の存在は、俺の生活に、これまでになかった彩りを与えてくれた。モノクロだった日常が、鮮やかな色で塗り替えられていくようだった。里奈の温かい眼差しが、俺の心に安らぎを与えてくれた。彼女の存在は、俺にとって、まるで呼吸をするかのように、必要不可欠なものになっていた。
だが、そんな満たされた日常の中に、微かな、しかし確かな「波紋」が立ち始めたのは、俺たちの関係が始まって数ヶ月が経った頃だった。
ある日の夜、仕事で疲れて帰宅した俺は、里奈が作ってくれた夕食を前に、箸を持つ手が止まった。目の前には、俺の好物である唐揚げが並べられている。香ばしい匂いが漂い、食欲をそそるはずなのに、なぜか箸が進まない。
「康介さん、どうしたの?疲れてる?」
里奈が、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。その瞳は、俺の些細な変化も見逃さない。
「ううん、大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
俺は、無理に笑顔を作って答えた。しかし、俺の心の中には、言いようのない倦怠感が広がっていた。
正直なところ、里奈との関係に「飽き」が来ているわけではなかった。しかし、熱烈な感情が、徐々に落ち着き、日常に溶け込んでいるのを自覚していた。それは、恋の始まりの頃の、あの強烈な高揚感とは異なる、穏やかで安定した感情だ。だが、俺はそれを「刺激のなさ」と感じ始めていたのだ。毎日同じようなルーティン。仕事から帰って、里奈の作った料理を食べ、他愛もない会話をして、夜を共にする。それは、かつて俺が求めていた「温かい家庭」の姿そのものだったはずなのに、なぜか、心の奥底で、物足りなさを感じ始めていた。
それは、俺の男としての本能が、新たな「刺激」を求めているからなのだろうか。それとも、これまで恋愛経験が少なかった俺が、安定した関係というものをどう扱っていいか分からず、戸惑っているだけなのだろうか。自分でも、その感情の正体が掴めずにいた。漠然とした不安と、罪悪感が、俺の心を蝕んでいく。里奈の優しい眼差しが、まるで俺の心の奥底を見透かしているかのように感じられ、俺は時折、彼女の視線から逃れるように、目を逸らした。
里奈は、そんな俺の微妙な変化を敏感に察知していたようだった。ある日の夜、ソファに座り、俺の肩にもたれかかっていた里奈が、ふと顔を上げた。
「康介さん、最近元気ないね。何かあった?」
里奈の声は、優しく、しかし、その瞳の奥には、俺を心配する色が深く宿っていた。
俺は、言葉に詰まった。正直な気持ちを伝えるべきか、それともこのまま曖昧に誤魔化すべきか。
「いや…、別に何もないよ。仕事がちょっと忙しいだけ」
結局、俺は嘘をついてしまった。里奈の顔に、微かな寂しさが浮かんだのが分かった。
「そっか…でも、無理しないでね。康介さんが辛い時は、いつでも私に言ってね」
里奈は、そう言って、俺の手をぎゅっと握りしめた。彼女の温かい手が、俺の心を締め付けた。嘘をついている自分に、罪悪感が募る。彼女の優しさが、まるで俺の心を深くえぐり取るようだった。
その日以来、里奈は、俺の心の変化を感じ取ったかのように、これまで以上に俺に尽くしてくれるようになった。俺の好きな料理を毎日食卓に並べ、疲れて帰った俺の肩を揉んでくれたり、温かいお風呂を用意してくれたり。彼女の細やかな気遣いは、俺の心を温かく包んだ。しかし、俺の中の澱のような感情は、なかなか消えなかった。むしろ、彼女の優しさに触れるたび、嘘をついている自分への罪悪感が、さらに増していくようだった。
「ねぇ、康介さん、週末、どこかに行かない?」

ある日の夜、里奈が提案した。俺は、仕事の疲れと、心の倦怠感から、どこにも出かけたくなかった。
「うーん、ごめん。今週末は、ちょっとゆっくりしたいかな…」
俺は、正直に答えた。里奈の顔から、笑顔が消えた。
「そっか…わかった」
里奈の声は、小さく、そして寂しそうだった。俺の心に、チクリと痛みが走った。彼女を傷つけている。その事実が、俺の心をさらに重くした。
そんな状態が数週間続いたある夜、俺は里奈に、衝動的に、そしてひどい言葉をぶつけてしまった。仕事で大きなミスをしてしまい、上司に厳しく叱責された日だった。普段なら、里奈の顔を見れば落ち着くはずなのに、その日の俺は、感情の捌け口を求めていたのかもしれない。
里奈は、いつものように俺のために夕食を作ってくれていた。テーブルには、湯気が立ち上る温かいシチューと、サラダ。その優しい香りが、俺の荒れた心をさらに刺激した。
「ただいま」
俺は、不機嫌な声でそう言った。里奈は、パッと振り返り、俺の顔を見て、すぐに異変を察したようだった。
「康介さん、どうしたの?何かあった?」
里奈は、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「何でもない!疲れてるんだよ!」
俺は、語気を強めて言い放った。その言葉に、里奈の顔から、一瞬で血の気が引いたのが分かった。
「でも…」
里奈が、何か言いかけたが、俺はそれを遮った。
「もういい!俺は疲れてるんだ!放っておいてくれ!」
俺は、そう言って、リビングのソファに乱暴に座り込んだ。里奈は、黙って俺の隣に座り、何も言わずにただ俺の背中をそっと撫でてくれた。その優しさが、かえって俺の心を締め付けた。
「あのさ、俺たち、本当にこのままでいいのかな?」
衝動的に、その言葉が口から出てしまった。俺は、里奈の顔を見ずに、そう言った。その言葉は、俺の喉から絞り出すように発せられた。
里奈の手が、俺の背中から離れた。部屋の中に、重い沈黙が流れる。まるで、時間が止まってしまったかのように、何も音がしない。心臓の音だけが、ドクンドクンと耳元で鳴り響いていた。
「どういうこと…?」
里奈の声は、震えていた。その声を聞いた瞬間、俺は自分の愚かさに気づいた。取り返しのつかないことを言ってしまった。
「いや…、その…ごめん。俺、疲れてるんだ。なんでもない」
俺は、慌てて言葉を訂正しようとしたが、一度口から出た言葉は、もう取り消せない。
里奈は、何も言わずに立ち上がり、キッチンへと向かった。そして、湯気が立ち上るシチューを、何も言わずに食べ始めた。その背中が、なぜかとても小さく見えた。俺は、自分の放った言葉に、ひどく後悔した。里奈の優しさに甘えすぎていた。彼女の気持ちを、全く考えていなかった。
その夜、俺たちは、いつもと同じように一つのベッドに横たわった。しかし、二人の間に流れる空気は、これまでとは全く違っていた。冷たく、重い沈黙が、二人の間を隔てている。里奈は、俺に背を向け、小さく丸まっていた。俺は、里奈の背中に手を伸ばそうとしたが、その手は空中で止まった。怖かった。彼女を傷つけたことへの罪悪感と、この関係が終わってしまうのではないかという恐怖が、俺の心を支配した。
翌朝、里奈は、いつもより早く起きていた。俺が目を覚ました時には、もう朝食の準備を終え、食卓には温かいトーストとコーヒーが並べられていた。いつもと同じ朝食なのに、昨夜の出来事が、俺たちの間に見えない壁を作っているようだった。
「行ってきます」
俺が、小さな声でそう言うと、里奈は俺の顔を見ずに「行ってらっしゃい」とだけ言った。その声は、感情がこもっておらず、まるで機械が発する音のようだった。
仕事中も、俺は里奈のことばかり考えていた。昨夜の俺の言葉が、里奈をどれだけ傷つけたか。俺は、どれほど愚かなことをしてしまったのか。後悔の念が、俺の心を締め付けた。昼休み、俺は里奈にメッセージを送った。「昨日は本当にごめん。疲れてたとはいえ、あんなこと言うべきじゃなかった。里奈を傷つけてごめん。」返信は、なかなか来なかった。数時間後、里奈から短いメッセージが届いた。
「大丈夫だよ。私も少し考えたいから、今日は一人で過ごさせて。」
そのメッセージに、俺の心は絶望に包まれた。
その日の夜、俺は一人、静まり返った部屋で、里奈の帰りを待った。時間はあっという間に過ぎていく。しかし、どれだけ待っても、里奈は帰ってこなかった。時計の針が、深夜を指す。普段なら里奈の寝息が聞こえるはずのベッドは、ひどく広く、そして冷たかった。俺は、里奈のいない部屋で、一人、孤独と後悔に打ちひしがれていた。
翌朝、俺は里奈に電話をかけた。しかし、電話は繋がらない。何度かけても、呼び出し音が虚しく鳴り響くだけだった。俺の心は、不安でいっぱいになった。もしかして、このまま里奈は俺の前から消えてしまうのではないか。そんな悪夢のような考えが、俺の頭の中を駆け巡った。
数日、里奈からの連絡はなかった。俺は、仕事にも集中できず、上の空で業務をこなす日々が続いた。デスクに座っていても、里奈の顔が脳裏にちらつき、ため息ばかりが漏れる。昼休み、同僚たちが楽しそうに話している声が、俺の耳には届かなかった。俺の心は、まるで深い霧の中にいるかのように、何も見えなくなっていた。
「矢野、最近どうした?何か元気ないな」
上司が、心配そうに俺に声をかけてきた。俺は、曖昧に笑って誤魔化した。
里奈のいない日常は、これまで以上に灰色で、そして冷たいものだった。彼女がいた頃の温かさが、どれほど尊いものだったか、失って初めて気づいた。俺は、自分の愚かさを心底後悔した。もう一度、里奈の笑顔が見たい。彼女の温かい手に触れたい。その思いが、俺の心を支配した。
そんな時、俺のスマホが鳴った。里奈からの電話だった。俺は、すぐに電話に出た。
「里奈!」
俺の声は、弾んでいた。
「康介さん…」
里奈の声は、少しだけ沈んでいた。その声に、俺の心は不安に包まれた。
「里奈、本当にごめん。あの時は、俺が最低だった。疲れてたとはいえ、あんなこと言うべきじゃなかった。里奈を傷つけて、本当にごめん…」
俺は、一気に謝罪の言葉を口にした。
「ううん…、私も、少し冷静になりたかったから…」
里奈の声は、まだ少し震えていた。
「里奈、もう一度会って話したい。ちゃんと謝りたいんだ」
俺は、必死に懇願した。里奈の声を聞いているだけで、涙が出そうだった。
「…分かった。じゃあ、明日の仕事終わりに、いつものカフェで会える?」
里奈の言葉に、俺は心底安堵した。
「ありがとう、里奈。必ず行く」
俺は、電話を切った後、胸を撫で下ろした。明日の再会。それが、俺にとっての最後のチャンスだった。俺は、里奈の心をもう一度取り戻すために、何でもすると心に誓った。里奈と俺の関係は、まだ終わっていなかったのだ。その事実が、俺の心を強く突き動かした。