私の人生は、厚い学術書で埋め尽くされていた。小野隆、55歳。大学教授という肩書きは、周囲から見れば栄誉あるものなのだろう。しかし、私の書斎はいつも、どこか澱んだ空気に満ちていた。壁一面の本棚には、古典から最新の論文までがぎっしりと並び、その重みに耐えかねるように、床は軋む。夜な夜な、蛍光灯の下で原稿用紙に向かい、難解な理論をこねくり回す。それが私の日常であり、喜びであり、そして——孤独だった。
長年研究に没頭し、独身を貫いてきた。若い頃は、この知の探求こそが、人生のすべてだと信じて疑わなかった。だが、寄る年波には勝てない。ふとした瞬間に襲い来る、胸の奥を締め付けるような寂寥感。それは、夜空に瞬く星を一人で見上げているような、そんな感覚だった。
「このままでいいのか、私は・・・」
虚空に問いかける。誰もいない書斎に、私の声だけが虚しく響く。隣の部屋から聞こえるのは、古くなったエアコンの低い唸り声だけだ。かつては、この静寂こそが集中力を高めるための最良の環境だと信じていた。だが今は、まるで墓場のような静けさに思えた。
そんな折、ふと目にしたテレビCMが、私の心に小さな、しかし確かな波紋を広げた。
「新しい出会いが変える。あなたの人生」
マッチングアプリの宣伝だった。若者が使うものだ、と決めつけていたはずなのに、なぜかその言葉が、澱んだ書斎の空気を突き破って、私の深層にまで届いてきた。人生の新たな章を開く? そんなことが、本当にあり得るのだろうか。
「まさか、私がねぇ……」
自嘲気味に呟きながらも、指先はスマートフォンを弄っていた。ダウンロードボタンをタップする。あの硬い学術書を捲る指とは違う、どこかぎこちない動きだった。プロフィールを埋める作業は、まるで自己分析の論文を書くようだった。
——小野 隆、55歳、大学教授。趣味は読書と歴史探求。真剣な出会いを求めています。
なんて味気ない。だが、偽りもない。私はただ、この寂しさを埋めてくれる何かを求めていた。誰か、私の話に耳を傾けてくれる人。知的な刺激を与え、そして、静かに寄り添ってくれる存在。そんな都合のいい相手が、果たしてこのアプリの中にいるのだろうか。半信半疑だった。
数日が経ち、いくつかの「いいね」が届いたが、どれもピンとこなかった。若い女性からの、いかにも軽いノリのメッセージ。それは私が求めるものとはかけ離れていた。諦めかけていたその時、一枚のプロフィール写真が目に留まった。
大木久美子、24歳、司書。
彼女のプロフィールは、まるで図書館の静謐な一角を切り取ったかのようだった。柔らかく微笑む表情は知性的で、どこか懐かしさを覚える。そして、彼女の「自己紹介」に私は心を奪われた。
「文学と歴史に囲まれた日々を送っています。知的な刺激を与え合い、穏やかな関係を築ける方との出会いを希望します。」
これだ、と思った。私の求めるものが、そこに明記されていた。すぐに「いいね」を送り、そして、数時間後、彼女からのマッチング通知が届いた。胸が高鳴る。何十年ぶりだろう、こんなにも心が躍る感覚は。論文の発表前夜よりも、ずっと。
最初のメッセージは、慎重に言葉を選んだ。
「はじめまして、小野隆と申します。大木さんのプロフィールを拝見し、共通の趣味に大変惹かれました。特に、文学と歴史への造詣の深さに感銘を受けております。」
送信ボタンを押す指が、わずかに震えた。まるで、初めて学会で発表する時のように。数分後、彼女からの返信が届いた。
「小野先生、はじめまして。大木久美子と申します。私のプロフィールをご覧いただき、ありがとうございます。小野先生が大学教授でいらっしゃると知り、大変驚きました。先生の専門分野にも興味があります。」
「先生」という言葉に、少し戸惑った。だが、その丁寧な言葉遣いと、私の職業への敬意が感じられるメッセージに、私はすぐに好感を抱いた。そこからのメッセージのやり取りは、まるで学術論文の議論のように、深く、そして知的に展開された。文学作品の解釈、歴史上の人物の評価、そして、それぞれの時代の思想について、私たちは熱心に意見を交わした。
久美子の言葉選びは、常に思慮深く、そして的確だった。彼女の知識の深さには、正直驚かされた。24歳という若さで、これほどまでに奥深い知見を持っているとは。
「紫式部の『源氏物語』における女性の描写は、当時の社会規範への静かな抵抗を示しているように思えます。特に、浮舟の選択には、現代にも通じる普遍的なテーマが隠されているのではないでしょうか、小野先生?」
彼女のメッセージに、私は思わず唸った。私の専門とは少し外れるが、その視点は非常に興味深い。
「大木さんの洞察力には感服いたします。確かに、浮舟の選択は、当時の女性が置かれた状況における究極の自由意志の表現とも言えるでしょう。私も、その解釈には深く同意しますよ。」
彼女の知性に対する尊敬の念が、私の心を温かく包み込んだ。彼女は、私の知的好奇心を刺激し、私自身も気づかなかった思考の深淵へと誘ってくれる存在だった。
日を追うごとに、私たちはメッセージのやり取りを重ねた。時には、深夜まで議論が続くこともあった。スマートフォンの画面越しに、彼女の息遣いが聞こえてくるような錯覚に陥るほど、私たちは深く繋がっていった。
「小野先生は、日本の歴史における転換点として、どの時代が最も重要だとお考えですか?」
「うーん、それは難しい質問ですね、久美子さん。私はやはり、明治維新が日本の近代化に与えた影響は計り知れないと考えています。しかし、その後の急速な欧米化が、日本の伝統文化に与えた影響も看過できません。」
「なるほど。私も同感です。急速な変化の中で、人々が何を失い、何を得たのか。そこに、現代社会の課題を読み解くヒントがあるような気がします。」
私たちは、まるで古書のようにゆっくりと熟成される、静かで深い愛情を育んでいった。それは、これまでの私の人生にはなかった、新しい感情の兆しだった。画面越しの文字の羅列が、次第に久美子という一人の女性の息遣いや、知的な眼差し、そして、柔らかい微笑みを伴って、私の心に刻み込まれていく。オンライン上のイメージは、確固たる久美子の存在として、私の脳裏に焼き付いていった。会ってみたい。その思いは、日ごとに募っていった。この知的なやり取りを、直接顔を見て、声を聞いて、分かち合いたい。その衝動が、私を突き動かした。
そして、ついに私たちは、初めてのデートの約束を取り付けた。場所は、都心の静かな美術館。私が提案した。二人で静かに絵画を鑑賞しながら、言葉少なではあるものの、心を通わせたいと思ったのだ。それは、まさに私たちがメッセージで紡いできた知的な関係の延長線上にある場所だった。
デート当日。私は、いつもより念入りに身だしなみを整えた。真新しいスーツに袖を通し、ネクタイを締める。鏡に映る自分は、どこか浮かない顔をしていた。果たして、オンライン上のイメージと、現実の久美子に、ギャップはないだろうか。そんな不安が、胸の奥で渦巻いていた。
約束の美術館のエントランス。時計の針が、集合時間を指す。心臓が、ドクドクと音を立てていた。遠くから、見慣れない姿の女性が近づいてくる。すらりと伸びた手足、控えめな色合いのワンピース。彼女は、私のオンライン上のイメージを、そのまま具現化したかのようだった。
「小野先生、お待たせいたしました。」

透き通るような声が、私の耳に届いた。顔を上げると、そこにいたのは、紛れもなく大木久美子だった。画面越しに見ていた笑顔と、全く同じ、知的な微笑み。私は、安堵の息を漏らした。
「久美子さん。こちらこそ、お待ちしておりました。」
私の声は、思ったよりも上ずっていたかもしれない。久美子は、私の緊張を察したのか、ふわりと微笑んだ。
「美術館、楽しみですね。」
その言葉に、私の肩の力が抜けた。私たちは連れ立って、美術館の入口をくぐった。
最初の展示室。印象派の絵画が壁一面に飾られている。私たちは、一歩ずつ、ゆっくりと絵画の前を歩いた。言葉は少なかった。互いに、絵画をじっと見つめる。久美子の横顔は、絵画と同じくらい美しかった。彼女の落ち着いた佇まいと、物事の本質を見抜くような澄んだ目に、私は強く惹かれていた。
「この絵の光の表現は、まるで呼吸をしているかのようですね。」
久美子が、ぽつりと呟いた。彼女の言葉は、いつも的確で、私の心を捉えた。
「ええ、まさに。描かれた瞬間の空気が、そのままキャンバスに閉じ込められているようです。」
私たちは、時折視線を交わし、静かに頷き合った。言葉を交わさなくても、お互いの心が通じ合っている。そんな不思議な感覚が、私を包み込んでいた。
二つの魂が、書庫の片隅で、静かに、そして確かに愛を紡ぎ始めたのだ。マッチングアプリという現代的な出会いでありながら、私たちの間には、古書のようにゆっくりと熟成される、静かで深い愛情が育まれていく。それは、これまでの私の人生にはなかった、新しい感情の兆しだった。オンライン上のイメージと、現実の久美子。その間には、ギャップなど存在しなかった。むしろ、現実の久美子は、私の想像を遥かに超える魅力を持っていた。その柔らかな声、知的な眼差し、そして、時折見せるはにかんだ笑顔。どれもが、私の心を深く捉えて離さなかった。この出会いが、私の灰色の書斎に、どんな色を添えてくれるのだろうか。期待と、そして、かすかな予感に胸を膨らませながら、私は久美子の隣を歩いていた。