彼女のプロフィールを読み終え、「いいね」を送った俺は、スマホを握りしめながら、かすかな期待と、それ以上の不安に胸を締め付けられていた。無機質な液晶画面の向こうに、本当に「出会い」があるのだろうか。これまで、恋愛とは縁遠い日々を過ごしてきた俺にとって、この一歩は、まるで未知の領域へと足を踏み入れるような、そんな感覚だった。心臓がドクン、ドクンと不規則なリズムを刻む。まるで、これから始まる何かの予兆であるかのように。
数日後、俺のスマホが震えた。通知欄に表示された「中西里奈さんからメッセージが届きました」の文字に、俺の指は思わず止まった。一瞬、息が止まる。すぐに開くべきか、それとも少し時間を置くべきか。そんな些細なことでさえ、俺の心を大きく揺さぶった。深呼吸を一つ。そして、意を決してメッセージを開いた。
「初めまして、中西里奈です。矢野康介さんのプロフィール拝見しました。休日の過ごし方が素敵ですね」
たった数行のメッセージなのに、俺の心臓はドクン、ドクンと耳元で鳴り響いている。まるで、大事な取引先との契約書にサインをするかのように、慎重に言葉を選んだ。俺は、まるで手紙を書くかのように、キーボードを叩いた。指先が、わずかに震える。
「初めまして、矢野康介です。メッセージありがとうございます。里奈さんも、お仕事大変そうですが、休日はゆっくり過ごされているのでしょうか?」
俺は、メッセージの最後に、さりげなく里奈の名前を入れてみた。親しみを込めて。返信が来るまでの間、俺はスマホを握りしめ、画面を凝視していた。たった数分の時間が、永遠のように長く感じられた。もし返信が来なかったら、この小さな希望は、あっという間に消えてしまうだろう。そんな不安が、胸を締め付けた。秒針の音さえ、なぜか耳に響いてくる。数分後、「ピロン」という通知音と共に、里奈からの返信が来た。その音に、俺は思わず肩を揺らした。
「ありがとうございます。事務職なので、定時には上がれることが多いですね。休日は、最近は、お気に入りのカフェで読書をしたり、少し遠出して美術館に行ったりしています。矢野さんは、お休みの日はリフレッシュされていますか?」
その丁寧な言葉遣いと、細やかな気遣いに、俺はすぐに好感を抱いた。画面の向こうから、彼女の優しい眼差しが伝わってくるようだった。まるで、温かい紅茶を差し出されるような、そんな安らぎを感じた。彼女がどんな表情でメッセージを打っているのだろう。そんな想像が、俺の頭の中に膨らんだ。
それから、俺たちのメッセージのやり取りが始まった。休日の過ごし方、好きな食べ物、最近読んだ本、観た映画。ささやかな日常の話題が、画面の中で弾む。里奈は、質問の一つ一つに丁寧に答え、さらに質問を返してくる。その細やかな気遣いが、俺の心に染み渡った。まるで、乾いた土に水が染み渡るように、俺の心を潤していく。仕事で凝り固まった心が、少しずつ、ゆっくりと解れていくのを感じた。まるで、凍てついた大地に春の陽光が差し込み、雪解け水がサラサラと流れ出すように。
「お休みの日は、いつも何をされているんですか?」
俺がそう尋ねると、里奈は
「最近は、お気に入りのカフェで読書をしたり、少し遠出して美術館に行ったりしています。矢野さんは、お休みの日はリフレッシュされていますか?」
と返してきた。彼女の返信からは、いつも穏やかで知的な雰囲気が伝わってきた。彼女がどんな本を読んでいるのか、どんな絵に感動するのか。俺は、メッセージの向こう側の彼女の生活を、少しずつ想像するようになった。
俺の無骨な休日の過ごし方(たいてい家でゴロゴロして、録画したテレビ番組を消化しているだけなのだが)を話しても、里奈は
「それも大切ですよね。たまには何も考えずに過ごす時間も必要です」と、優しく受け止めてくれた。その包容力に、俺は知らず知らずのうちに惹かれていった。まるで、乾いたスポンジが水を吸い込むように、彼女の優しさが俺の心に染み渡っていく。
里奈の方も、俺の真面目な仕事の話を聞いては「大変なお仕事ですね」と労ってくれた。
「康介さん、銀行員さんって、やっぱり大変なんですね。数字とか、細かい作業とか、私には向いてないから、尊敬します」
というメッセージに、俺は思わず口元が緩んだ。褒められることに慣れていなかった俺の頬が、少しだけ熱くなるのを感じた。時折、俺がふと漏らす素朴な冗談にも、クスッと笑ってくれる。
「それ、面白いですね!康介さんって、意外とユーモアのセンスがあるんですね」という返信に、俺は少し照れくさくなった。
画面越しなのに、まるで彼女の笑顔が見えるようだった。初めて顔を合わせる前から、俺たちの間には、長年の友人のような心地よい信頼感が芽生え始めていた。それは、アプリという現代的な出会い方でありながら、どこか懐かしい、温かい感覚だった。まるで、見えない糸で結ばれているかのように、俺たちの心は少しずつ近づいていった。夜遅くまで続くメッセージのやり取りは、俺の生活に、これまでになかった活力を与えてくれた。スマホの画面から漏れる光が、俺の部屋を、そして俺の心を、淡く照らしていた。
メッセージのやり取りは、日に日に密度を増していった。通勤電車の中、昼休みのデスク、帰宅後のソファ。どんな時でも、里奈からの通知を心待ちにするようになった。彼女の返信が来るたびに、俺のスマホの画面が明るくなり、俺の心も明るくなる。まるで、液晶画面の向こうに、もう一人の自分がいるかのような感覚だった。
「康介さんは、休日はどこかに出かけたりしないんですか?」
里奈からのメッセージは、いつも俺の日常に、新たな視点を与えてくれた。
「あんまり出かけないですね。映画館とか、たまに行きますけど」
俺は正直に答える。
「そうなんですね!私も映画好きですよ。最近何か観ましたか?」
彼女の返信は、いつも前向きで、俺の心を惹きつける。
「最近は、ちょっと前に公開されたSF映画を観ました。里奈さんはどんなジャンルが好きですか?」
俺は、普段あまり話さない映画の話を、里奈には不思議と気軽に話せた。
「私はヒューマンドラマとか、心温まる映画が好きです。あ、この前、〇〇っていう映画を観たんですけど、すごく感動しました。康介さんも好きかもしれません」
里奈が勧めてくれた映画を、俺はすぐに調べて、次の休日に観てみた。エンドロールが流れる頃には、彼女が言ったように、俺の心も温かい気持ちに包まれていた。映画館を出て、すぐに里奈にメッセージを送った。
「里奈さんが勧めてくれた映画、観ました。すごく良かったです。ありがとうございました。」
里奈からの「本当に!嬉しいです!康介さんが感動してくれてよかった」という返信に、俺は思わず笑みがこぼれた。画面越しの共有体験が、俺たちの距離をさらに縮めていく。
ある日、里奈からメッセージが届いた。
「康介さん、最近仕事でお疲れじゃないですか?もしよかったら、週末にでも、お気に入りのカフェでお茶でもいかがですか?」
そのメッセージを読んだ瞬間、俺の心臓は大きく跳ねた。有頂天になる。画面越しに、彼女の優しい気遣いが伝わってくる。直接会うことを提案してくれたのだ。俺の指先が、震える。
「ぜひ!私も里奈さんとお話してみたいです」
送信ボタンを押す指には、普段の業務連絡とは違う、微かな緊張が走った。返信が来るまでの数分間が、永遠のように長く感じられた。心臓がドクン、ドクンと不規則なリズムを刻む。もし断られたらどうしよう。そんな不安が頭をよぎる。数秒後、「ピロン」という通知音と共に、里奈からの返信が来た。
「嬉しいです!では、〇〇駅の近くにある、私がよく行くカフェはいかがですか?駅からも近いですし、落ち着いてお話できると思います」
その文字を目にした瞬間、俺は思わず小さくガッツポーズをした。体の中に、温かい電流が走るような感覚だった。同時に、実際に会うことへの期待と、少しの不安が入り混じった感情が沸き上がった。果たして、画面越しの彼女と、目の前の彼女は同じなのだろうか。期待と不安が、俺の心を大きく揺さぶった。週末が、こんなにも待ち遠しいと感じるのは、いつ以来だろうか。
初めてのデート当日。俺は、いつもより少しだけ念入りに身支度を整えた。鏡に映る自分は、普段の疲れた顔ではなく、どこか緊張と期待に満ちた表情をしていた。クローゼットから、いつもは仕事でしか着ないような、清潔感のあるジャケットを選んだ。ネクタイを締める手も、いつもよりぎこちない。
約束の時間の15分前には、里奈が指定してくれたカフェに到着した。都心の隠れ家のような静かなカフェ。店内は、控えめなジャズが流れ、焙煎されたコーヒー豆の香りが漂っている。窓から差し込む午後の光が、店内の木製のテーブルに柔らかな陰影を落としている。俺は、入り口近くの席に座り、店員にコーヒーを注文した。普段、取引先とのアポイントメントでは決して見せることのない、落ち着かない自分がそこにいた。視線は自然と入り口に向かい、行き交う人々の顔を無意識に追っていた。胸の奥で、期待と緊張が入り混じった熱がくすぶっていた。
「康介さん!」

聞き慣れた声に、俺はハッと顔を上げた。そこに立っていたのは、メッセージのやり取りで見た写真と全く同じ、親しみやすい笑顔の里奈だった。白いブラウスに、柔らかなベージュのスカート。飾らないけれど、清潔感のある魅力的な装いが、彼女の穏やかな雰囲気にとてもよく似合っていた。その立ち姿は、まるで春の陽光を浴びた一輪の花のようだった。周りの景色が、一瞬で色鮮やかに変わったような気がした。店内に、ふわっと甘い香りが漂った。
「中西さん、今日はありがとうございます」
俺は立ち上がり、里奈に軽く会釈した。俺の口から出た言葉は、なぜか少し上ずっていた。
「里奈でいいですよ。私も康介さんって呼ばせてもらいますね」
里奈は屈託のない笑顔で、そう言ってくれた。その笑顔に、俺の心の緊張はすぐに和らいだ。まるで、春の陽光が差し込むように、凍てついていた心がゆっくりと解れていくのを感じた。カフェの窓から差し込む午後の光が、彼女の柔らかな髪を優しく照らしている。光の粒が、彼女の周りでキラキラと舞っているように見えた。その輝きは、俺の目にはまぶしいほどだった。
席に着き、温かいマグカップを両手で包み込むと、温かさが指先からじんわりと伝わってくる。俺たちは自然と会話を始めた。
「メッセージで話してたカフェ、ここがそうなんですね。落ち着いてて素敵です」
里奈は、店内をゆっくりと見回しながら言った。その声は、メッセージの文字から想像していたよりも少しだけ高く、そして、優しさに満ちていた。その声が、俺の鼓膜を心地よく震わせる。
「ありがとうございます。里奈さんが気に入ってくれてよかった」
俺は、里奈の表情を注意深く観察した。メッセージのやり取りと変わらない、穏やかで優しい表情だ。そこにオンラインとオフラインのギャップは感じられなかった。それが、俺の心に安堵をもたらした。話せば話すほど、里奈の魅力に引き込まれていった。彼女の落ち着いた話し方、相手の目を見てしっかりと話を聞く姿勢。そして、細部にまで気を配る優しさ。俺が話す冗談にも、楽しそうに「くすっ」と笑ってくれる。そのたびに、俺の心臓はキュッと音を立てた。まるで、初めての恋に落ちた少年のような、そんな甘酸っぱい感覚だった。
里奈もまた、俺の落ち着いた話し方と、時折見せる真剣な表情に、安心感を覚えているようだった。仕事の話、休日の過ごし方、学生時代の思い出。アプリでのやり取りだけでは伝えきれなかった、それぞれの人間性が、ゆっくりと溶け合っていく。画面越しに感じていた信頼感が、目の前の彼女と向き合うことで、確かなものへと変わっていくのを感じた。温かいコーヒーの湯気が、二人の間に漂う、優しい空気をさらに温めているようだった。
「マッチングアプリで出会うって、最初は正直、少し不安でした」
里奈がふと、はにかんだようにそう漏らした。その表情には、少しだけ戸惑いが見えた。テーブルに置かれた彼女の白い指先が、わずかに震えているように見えた。
「そうですよね。俺も最初は、正直、半信半疑なところがありました。でも、里奈さんのプロフィールを見て、なんか安心できたというか…」
俺は正直な気持ちを伝えた。その言葉は、俺の偽らざる本心だった。
「でも、康介さんとメッセージのやり取りをしているうちに、すごく安心できる人だなって。実際に会ってみて、やっぱりそう思いました。康介さんのメッセージ、すごく丁寧で、真面目さが伝わってきて…会う前から、なんだか信用できるなって思ってました」
里奈の言葉に、俺の胸は温かいもので満たされた。それは、彼女への感謝と、そして、この出会いを大切にしたいという、強い願いだった。言葉にならない感情が、胸の奥底からこみ上げてくる。アプリという現代的な方法での出会いでありながら、俺たちの間には、まるで昔ながらの恋愛のような、ゆっくりと温かく育っていく愛の予感が漂っていた。この穏やかな時間が、ずっと続けばいいのに――。俺は、コーヒーカップを両手で包み込む里奈の白い指先に、ふと視線を落としていた。その指先は、まるで陶器のように滑らかで、俺の男としての本能が、小さく疼くのを感じた。触れてみたい。そんな衝動が、胸の奥底でひっそりと芽生えていた。
カフェでの初デートは、あっという間に時間が過ぎた。気がつけば、窓の外は夕焼けに染まり始めていた。俺たちは、カフェを出て、駅へと向かう。二人並んで歩く道すがら、会話は途切れることなく続いた。里奈の優しい声が、俺の耳元で心地よく響く。別れ際、俺は勇気を出して、次のデートに誘った。
「もしよかったら、また近いうちにお会いできませんか?」
里奈は、少しだけ俯き、はにかんだように頷いた。
「はい、ぜひ。私も康介さんとまたお話ししたいです」
その言葉に、俺の心は再び温かい光に包まれた。
こうして、俺と里奈の関係は、一歩ずつ、しかし確実に深まっていった。この出会いが、俺の灰色だった日常を、鮮やかな色で染め上げてくれることを、俺は心の底から願っていた。