体験談

ネームに綴る恋 前編

俺、村上隆史、30歳。漫画家アシスタントをしている。ペンを握る手は、夢を追い続けてきた証だ。だけど、現実は厳しい。来る日も来る日も締め切りに追われ、自分の漫画を描く時間は、日に日に削られていく。そんな俺が、まさか、マッチングアプリに登録するとは、夢にも思わなかった。いや、正直に言えば、漫画だけが世界の全てじゃないと、どこかで現実逃避を求めていたのかもしれない。

「Ting!」

スマホの通知音に、思わず肩が跳ねた。画面には「佐藤玲奈さんがあなたに『いいね!』しましたの文字。玲奈、25歳、専門学校生(漫画学科)。プロフィール写真に映る彼女は、少しはにかんだような笑顔で、その隣には、どこか見覚えのある漫画のキャラクターのイラストが添えられていた。

「漫画学科か……」

共通点があるってだけで、心臓の鼓動がわずかに速くなるのを感じた。これは、もしかしたら……。俺は迷わず「ありがとう!」をタップした。

すぐにメッセージが来た。

「はじめまして、佐藤玲奈です。村上さんのプロフィールの漫画のイラスト、すごく素敵だなって思いました!」

絵に惹かれてくれたのか。素直に嬉しかった。

「はじめまして、村上隆史です。玲奈さんも漫画描かれるんですか?」

「はい! 専門学校で漫画を学んでます。村上さんも描かれるんですか?」

そこから、俺たちのメッセージのやり取りは、まるで墨を吸い上げる和紙のように、みるみるうちに広がっていった。好きな作品、影響を受けた作家、連載中の漫画の感想、そして、互いの創作活動について。

玲奈は、メッセージの端々から、漫画に対する尋常じゃない熱量を伝えてきた。それは、俺がアシスタントとして日々感じている、あの熱いクリエイティブな情熱と寸分たがわぬものだった。

「最近、『ヴァリアブル・スカイ』って漫画にハマってるんです。あの世界観、本当に痺れますよね!」

「おお! 玲奈さんもですか! あれは最高ですよね! 特にあの主人公の葛藤の描写が……!」

気づけば、夜通しメッセージを送り合っている日もあった。指はもう腱鞘炎になりそうなほどだけど、心の高揚がそれを忘れさせてくれる。誰かとこんなにも深く、そして熱く、漫画について語り合ったのは、いつぶりだろう。いや、もしかしたら、初めてかもしれない。アシスタント仲間とはまた違う、同業者でありながら、どこか共犯者のような感覚。

「村上さんって、アシスタントされてるんですよね? いつか、村上さんの作品も読んでみたいです」

その言葉が、胸の奥でくすぶっていた炎に、そっと薪をくべる。自分の漫画を描きたい。その気持ちを、玲奈が呼び起こしてくれた気がした。

メッセージのやり取りが2週間ほど続いたある日、俺は思い切って誘ってみた。

「あの、もしよかったら、今度、漫画喫茶でご一緒しませんか? お互い作業したり、好きな漫画勧め合ったりできたら嬉しいです」

送信ボタンを押す指が、わずかに震えた。OKしてくれるだろうか。もしかしたら、迷惑だと思われてしまうんじゃないか。既読になって、数秒。いや、数十秒か。体感では数分に感じられた。

「はい! ぜひご一緒したいです! どの漫画喫茶にしますか?」

「やった!」思わず声が出た。返信の早さに、玲奈も乗り気でいてくれたことを確信し、安堵のため息を漏らす。

待ち合わせは、駅前の大型漫画喫茶。約束の10分前に着いた俺は、入り口でそわそわと落ち着かない。まるで、初めてのデートみたいだ。いや、初めてのデートだ。こんなに緊張したのは、いつ以来だろう。

「村上さーん!」

振り返ると、そこに玲奈がいた。メッセージのアイコンよりも、ずっと可憐で、写真よりもずっと魅力的な笑顔。黒いTシャツにジーンズというラフな格好なのに、そのシンプルさがかえって彼女の透明感を引き立てていた。肩まで伸びた黒髪が、風にふわりと揺れる。

「玲奈さん! 今日はありがとうございます」

「こちらこそ! 村上さん、メッセージのイメージ通りですね!」

「え? そうですか?」

「はい! なんか、真面目で、でもちょっとシャイな感じ、伝わってきてました!」

玲奈の言葉に、頬がカッと熱くなるのを感じた。俺の印象って、そんな感じなのか。

漫画喫茶の受付を済ませ、二人でブースへ向かう。通路を歩く彼女の後ろ姿を見つめながら、自然と口角が上がるのを感じた。

「どの席にしますか?」

「んー、じゃあ、あの奥の席とかどうですか? なんか集中できそう」

玲奈が指差したのは、窓から光が差し込む一番奥の席だった。二人分のブースにそれぞれ座り、互いの前に漫画を広げる。

「じゃあ、俺はちょっとネーム進めますね」

「はい! 私も課題やっちゃいます!」

シーン、と静かな時間が流れる。ペンの走る音、キーボードを叩く音。時折、他のブースから漏れてくる微かな話し声。しかし、そのどれもが、心地よいBGMのように感じられた。隣に玲奈がいる。それだけで、なぜか集中力が増すような気がした。

数時間が経った頃、ふと顔を上げると、玲奈が俺のネームを覗き込んでいた。

「村上さん、これ、すごく面白いです! このコマ割りのセンス、すごい!」

玲奈の瞳が、キラキラと輝いている。そのまっすぐな視線に、俺の胸がトクンと鳴った。

「いやいや、まだまだですよ。もっと面白くしたいんだけど、なかなか……」

「そんなことないです! 特にこのシーン、キャラクターの感情がすごく伝わってきます。私、鳥肌立ちました!」

玲奈の言葉は、乾ききった大地に降る恵みの雨のように、俺の心に染み渡った。漫画家アシスタントとして、日々、他人の作品と向き合うばかりで、自分の作品を評価される機会はほとんどない。ましてや、こんなにも熱烈に、そして的確に評価してくれる相手なんて。

「ありがとう……そう言ってもらえると、本当に嬉しい」

俺の言葉に、玲奈はにっこりと微笑んだ。その笑顔が、なぜか俺の心臓を締め付けた。

「ねぇ、村上さん。この漫画、読んでみてください!」

玲奈が差し出したのは、少年漫画雑誌に連載されている、とあるファンタジー漫画の単行本だった。

「俺もこの漫画、気になってたんですよ!」

それから、俺たちは互いに好きな漫画を勧め合い、熱く語り合った。時には、同じコマを指差し、身を乗り出して議論した。互いの手が触れ合うこともあったが、そのたびに、パチッと静電気が走ったような感覚に襲われた。

「わかります! そのキャラクターの覚悟を決めた表情、たまらないですよね!」

「そう! その気持ちを表現するために、この角度で描いてるんだなって思うと、もう……!」

隣にいる玲奈の顔が、どんどん近づいてくる。熱弁するたびに、彼女の長い髪が俺の腕に触れる。その柔らかい感触に、俺の心臓はどんどん加速していく。

気づけば、外はもう真っ暗だった。俺たちは、漫画喫茶を出て、駅へと向かう道を歩いていた。

「今日は本当にありがとうございました。村上さんと話せて、すごく刺激になりました!」

「俺もです。玲奈さんとだと、こんなにも時間が早く過ぎるんですね」

月明かりの下、玲奈の横顔が美しく浮かび上がる。彼女の瞳が、まだ漫画の熱を宿しているのが見て取れた。

「また、漫画の話、したいです」

俺は、意を決してそう言った。彼女の返事を待つ間、心臓が耳元でドクドクと鳴り響いている。

「はい! 私も! じゃあ、次はどこ行きますか?」

玲奈の言葉に、俺の顔は綻んだ。また会える。その事実が、たまらなく嬉しかった。

「じゃあ、今度は、俺の家でどうですか? 俺、結構漫画持ってるんで。作業とか、一緒にできますし」

我ながら大胆な誘いだと思った。だけど、なぜか、そう言わずにはいられなかった。漫画という共通の熱量が、俺たちを、もっと深く結びつけようとしている気がしたからだ。

玲奈は、一瞬だけ目を見開いたが、すぐにふわりと笑った。

「いいですね! ぜひ!」

その笑顔が、俺の背中を、そっと押してくれた。この出会いは、きっと、俺の人生を変える。そんな予感が、確信に変わっていくのを感じた。

「じゃあ、また連絡します!」

「はい! 楽しみにしてますね!」

駅の改札で別れ、玲奈の姿が見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。胸の中には、彼女との出会いがもたらした、形容しがたい高揚感が渦巻いていた。明日からのアシスタント仕事も、きっと、いつもより集中できるだろう。自分の漫画を描く時間も、もっと増やせるかもしれない。玲奈という存在が、俺の情熱に、新しい火を灯してくれたのだから。

玲奈を駅で見送ってから、俺の心臓はしばらく収まることを知らなかった。家路に着く間も、彼女の笑顔や、漫画について熱く語る真剣な眼差しが脳裏に焼き付いて離れない。漫画喫茶での数時間が、まるで夢のように鮮やかに蘇る。ペンを走らせる音、時折触れ合った指先、そして、彼女の熱い視線。こんなにも、誰かとクリエイティブな情熱を共有できたことなんて、今までなかった。

翌日からのアシスタントの仕事は、いつもよりずっと捗った。玲奈との会話で得た刺激が、俺の描線に新たなエネルギーを吹き込んでくれたのだ。休憩時間には、スマホを手に取って、玲奈からのメッセージをチェックする。

「村上さん、昨日はありがとうございました! 今日も漫画漬けです(笑)」

「俺もです! 玲奈さんの言葉に、すごい元気もらってます」

そんな他愛ないやり取りが、俺の日常に鮮やかな彩りを添えていく。玲奈は、俺が今まで出会ったことのないタイプの人間だった。漫画への情熱は俺以上で、それでいて、どこか無邪気な好奇心に満ちている。彼女と話していると、自分の中に眠っていた、忘れかけていた「好き」という感情が、まるで再起動したかのように蘇るのを感じた。

週末、玲奈が俺の部屋に来ることになった。約束の時間が近づくにつれて、俺の胸の鼓動はどんどん高まっていく。部屋はいつも以上にきれいに片付けたし、玲奈が興味を持ちそうな漫画を棚から引っ張り出して、わかりやすいように並べた。

「ピンポーン」

インターホンが鳴り、心臓が大きく跳ねた。ガチャリとドアを開けると、そこに玲奈が立っていた。今日の彼女は、白のオーバーサイズのパーカーに、淡い色のスカートという、シンプルだけど可愛らしい格好だ。部屋着のようなラフな服装が、かえって彼女の親近感を高めている。

「村上さん、お邪魔しまーす!」

玲奈はにこやかに部屋に入ってきた。その瞬間、部屋の中の空気が、ふわりと明るくなったような気がした。

「いらっしゃい、玲奈さん。散らかってるけど、気にしないで」

「全然! 漫画がたくさんありますね!」

玲奈の目は、一瞬で部屋に並べられた漫画棚に吸い寄せられた。まるで宝物を見つけた子供のように、目を輝かせながら棚を眺めている。その様子を見ていると、俺の心も自然と温かくなった。

「この漫画、村上さんも持ってるんですね! 私もこれ、大好きなんです!」

玲奈が手に取ったのは、俺のお気に入りのSF漫画だった。共通の話題があるって、こんなにも心地いいものなのか。

「じゃあ、玲奈さんはそっちで作業する? 俺はこっちでネーム進めるから」

俺たちは、それぞれ作業スペースを確保し、黙々とペンを走らせ始めた。リビングのテーブルを挟んで、互いの息遣いが聞こえるほどの距離。集中すると、時折、玲奈の髪が揺れるのが視界の端に映る。そのたびに、微かにシャンプーの香りが漂ってきて、俺の鼻腔をくすぐった。

しばらくして、玲奈が小さく「うーん」と唸った。

「どうしたの? 玲奈さん」

「なんか、このコマ、どうもしっくりこなくて……」

玲奈が俺の前に、自分のネームを差し出した。それは、ヒロインが葛藤する重要なシーンだった。

「なるほど……。ここに、もう一コマ、ヒロインの心の揺れを表すカットを入れてみたらどうかな? 例えば、彼女の視線が、どこか一点に集中しているような……」

俺がそう言うと、玲奈は「ああ!」と声を上げ、すぐにペンを走らせ始めた。俺が提案した通りに描かれたコマを見て、玲奈は満面の笑みを浮かべた。

「村上さん、天才! 私、全然気づかなかったです!」

「いやいや、そんなことないって。玲奈さんのネームが面白いから、アイデアも自然と出てくるんだよ」

そう言いながら、俺は玲奈の肩にそっと手を置いた。ポン、と軽く叩くつもりだったのに、なぜかその手は、玲奈の肩に留まってしまった。玲奈のTシャツ越しに、彼女の体の温もりが伝わってくる。玲奈は、一瞬だけぴくりと肩を震わせたが、そのまま俺の言葉に耳を傾けていた。その時、俺の心臓は、まるで激しいドラムソロを叩いているかのように、けたたましく鳴り響いていた。

「玲奈さんの漫画、本当に面白い。もっとたくさんの人に読んでもらいたいな」

俺の言葉に、玲奈は顔を赤らめて俯いた。

「そんなことないです……。村上さんみたいに、プロのアシスタントの方に言ってもらえるなんて……」

玲奈はそう言いながら、俺の肩に乗っていた俺の手に、自分の手を重ねた。その指先が、俺の肌に触れる。ひんやりとした彼女の指先が、俺の熱くなった肌に触れた瞬間、体中に電流が走ったような感覚に襲われた。

「玲奈さん……」

俺は、思わず彼女の名前を呼んだ。玲奈はゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめる。その瞳の中に、俺の姿が映っていた。

「村上さん……」

玲奈の声は、か細く震えていた。俺は、もう我慢できなかった。気づけば、玲奈の頬に手を添え、ゆっくりと顔を近づけていた。玲奈は目を閉じ、俺のキスを受け入れるように、そっと唇を差し出してきた・・・。

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