「人生経験、か……」
スマホの画面に映る、歳の離れた女性の顔写真を眺めながら、俺は一人ごちた。
荻原悠馬、二十歳。都内の大学に通う、ごく普通の大学生だ。サークルとバイト、講義とレポート。それなりに忙しくはしているけれど、どこか物足りなさを感じていた。満員電車に揺られ、無機質なビル群を見上げるとき、ふと「このままでいいのか?」という漠然とした不安に駆られる。何か、日常を突き破るような刺激が欲しかった。
そんな時、ふと目にしたのが、巷で噂のマッチングアプリの広告だった。「新しい自分に出会える」「運命の相手が見つかる」。ありきたりな謳い文句の中に、「大人の関係」という、どこか蠱惑的な響きを見つけた。好奇心、背徳感、そして少しの劣等感。複雑な感情が混ざり合い、俺はアプリをインストールした。
プロフィールを登録し、いくつかの「いいね」を送ってみる。手応えは薄かった。大学生という身分は、多くの女性にとって魅力に欠けるのかもしれない。半ば諦めかけたその時、一通のメッセージが届いた。
「いいね、ありがとうございます。悠馬さんって、大学生なんですね。若いなぁ!」
川野友梨さん。27歳。プロフィール写真に写る彼女は、どこかミステリアスな雰囲気を纏っていた。年齢よりも落ち着いて見え、その微笑みには多くを知っている女性特有の色香が漂う。職業の欄には「サービス業」とだけ記載されていたが、ピンとくるものがあった。これは、俺が求めていた「日常」とは違う場所にいる人だ、と。
メッセージのやり取りは、予想外に弾んだ。歳の差なんてまるで感じさせない。友梨さんは話し上手で聞き上手、そして何よりも、俺の話を面白がってくれた。「人生経験を積みたい」という俺の漠然とした思いを、彼女は笑わずに受け止めてくれたんだ。「へぇ、悠馬くん、面白いこと考えてるんだね。私でよかったら、少しはそのお手伝い、できるかもよ?」そのメッセージに、俺の胸は高鳴った。
何度かメッセージを重ねた後、友梨さんから連絡先を交換しようと言われ、LINEに移行した。アイコンは、アプリの時よりも少しラフな、プライベート感のある写真だった。それでも、その眼差しの強さは変わらない。そして、初めて彼女から送られてきたメッセージを見たとき、俺は確信した。この人は、俺の知らない世界の住人だ、と。時間は深夜だった。
「ごめんね、今仕事終わったところなんだ。悠馬くんはもう寝てるかな?」
仕事。この時間から終わる仕事。それが何を意味するのか、俺の乏しい社会経験でも察しがついた。夜の仕事。ガールズバー勤務。プロフィール写真の、どこか掴みどころのない雰囲気に合点がいった。同時に、胸の奥にチクリとした痛みが走る。彼女は「商品」として、不特定多数の客に笑顔を振り撒いているのだろうか? その事実に、抗いがたい嫉妬のような感情が湧き上がった。
だが、それと同時に、得体の知れない興奮も込み上げてきた。彼女は、俺の知らない世界にいる。そして、その世界の入り口に、俺は今立っている。健全な大学生活では決して味わえない、仄暗く、甘美な予感がした。
「起きてますよ! お仕事お疲れ様です。あの、もしよかったら、今度お店に行ってもいいですか?」
送信ボタンを押す指が震えた。これは、単なる興味本位ではない。彼女の世界に足を踏み入れたい、という強い衝動だった。
数日後、友梨さんの働くガールズバーを訪れた。繁華街の雑居ビルの一室。重い扉を開けると、そこには非日常的な空間が広がっていた。煌びやかな照明、賑やかな話し声、そして、濃密なアルコールの匂い。その中に、友梨さんの姿を見つけた。

アプリやLINEのアイコンとは違う、プロの顔。満面の笑顔で客と話し、グラスを傾けている。その自然な仕草、巧みな会話術に、俺はただ圧倒された。これが、彼女の日常なのか。俺の住む世界とは全く異なる場所。
「あ、悠馬くん! いらっしゃい!」
俺に気づいた友梨さんが、キラキラとした笑顔で駆け寄ってきた。その声は、LINEで聞くよりも少し高く、弾んでいるように聞こえた。
「初めてだよね、こういうお店? 緊張してる?」
そう言って、俺の肩をポンと叩く。その距離の近さに、心臓が跳ね上がった。プロとしての距離感なのだろうが、俺にとっては初めての経験だった。
席に案内され、ドリンクを注文する。友梨さんは隣に座り、俺のグラスに気を配りながら、他愛ない話をしてくれた。大学での出来事、最近見た映画、好きな音楽。彼女は興味深そうに耳を傾け、時折相槌を打ったり、質問したりする。その自然な会話に、俺は少しずつ緊張が解けていくのを感じた。
しかし、ふとした瞬間に、彼女の顔から営業用の笑顔が消えることがある。他の客に気を配る真剣な眼差し。常連客との、少しくだけた、けれど一線を画したやり取り。その一瞬一瞬に、彼女がこの場所で生き抜いているプロフェッショナルであることを実感した。
「友梨さん、いつもこんな時間までお仕事大変ですね」
気がつけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
「あはは、慣れてるから大丈夫だよ。でも、こうやって悠馬くんが会いに来てくれるのは嬉しいな」
そう言って、友梨さんは俺の顔を覗き込んだ。その視線に射抜かれ、俺は思わず目を逸らした。これは、プロのテクニックなのか? それとも、少しでも本音が混ざっているのだろうか? 彼女の真意が読めず、俺の心は波立った。
会計を済ませ、店を出る。外の空気は、店の熱気とはまるで違い、ひんやりとしていた。友梨さんは店の前まで見送りに来てくれた。
「今日はありがとうね、悠馬くん。楽しかったよ」
そう言って、彼女は手を振った。その笑顔は、店の中の煌びやかなものではなく、どこか素の表情に近い気がした。
「あの、友梨さん。また、来てもいいですか?」
俺の声は、少し上ずっていたかもしれない。
「もちろん。いつでも待ってるよ。あ、でも、今度はプライベートで会うのもありかもね?」
最後の言葉は、俺の心臓を鷲掴みにした。プライベートで会う。それはつまり、彼女の世界の、さらに内側に入れるということだろうか。期待と不安、そして、プロの女性との危うい関係に足を踏み入れる背徳感。様々な感情が渦巻き、俺はただ「はい」としか言えなかった。
その夜、俺は眠れなかった。天井を見上げながら、友梨さんの笑顔、声、そしてほんの少し触れた肩の感触を反芻する。彼女は俺に、新しい世界の扉を開いてくれた。この先に何が待っているのか、全く予想がつかない。だが、一歩踏み出してしまった以上、もう後戻りはできないだろう。俺の「人生経験」は、今、始まったばかりだ。そして、それはきっと、甘く、そして少しだけ、苦い味がするに違いない。
友梨さんと「プライベートで会う」約束をしてから、俺の日常は一変した。講義中も、バイト中も、頭の中は彼女のことでいっぱいだった。次にいつ会えるのか。どこで会うのか。どんな話をしようか。初めて経験する、甘く痺れるような期待に胸が高鳴った。
LINEでのやり取りは、前よりも親密になった気がした。店の「友梨さん」ではなく、一人の女性としての「友梨」が垣間見える瞬間が増えたからだ。例えば、昼間に送られてくる「おはよー、今日はちょっと寝坊しちゃった」なんてメッセージ。当たり前の日常を共有できることが、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。
初めてのプライベートでの待ち合わせ場所は、都心から少し離れた、落ち着いたカフェだった。人目を避けるような場所を選んだのは、多分、俺たちの関係がまだ世間に知られてはいけないものだと、無意識に感じていたからだろう。
待ち合わせ時間の10分前に着いたのに、友梨さんはもう席に座っていた。店の時とは違う、シンプルなワンピース姿。化粧も薄い気がする。その姿は、俺がアプリで初めて見た写真の彼女よりも、ずっと柔らかく、親しみやすかった。でも、その眼差しに宿る強さは変わらない。俺は心臓が早鐘を打つのを感じながら、彼女の元へ向かった。
「ごめん、待った?」
「ううん、私も今来たところだよ。悠馬くん、今日の服、似合ってるね」
そう言って、友梨さんは優しく微笑んだ。その笑顔に、店の時の営業スマイルとは違う、本物の温かさを感じた。向かい合って座ると、途端に緊張が走った。バーでは賑やかな音楽と話し声がフィルターになっていたけれど、ここでは二人きり。沈黙が、妙にリアルに響く気がした。
何を話せばいいんだろう。大学生の俺と、夜の世界で生きる彼女。住む世界が違いすぎる。共通の話題なんてあるのだろうか。そんな俺の不安を見透かしたように、友梨さんが口を開いた。
「悠馬くんってさ、本当に面白いよね。『人生経験を積みたい』なんて、普通の子は思わないよ。なんか、すごくまっすぐで、見てて飽きないっていうか」
その言葉に、俺の顔は熱くなった。褒められているのか、からかわれているのか判別がつかない。でも、彼女が俺という人間そのものに興味を持ってくれているのは伝わってきた。そこからは、自然と会話が弾んだ。大学生活の話、サークルの話、将来の夢。彼女は、俺の拙い話を辛抱強く聞いてくれた。そして、時折、自分の過去の話を少しだけしてくれた。
「私ね、若い頃はもっと尖ってたんだよ。誰も信用しないし、自分のことも好きになれなくて。でも、この仕事始めて、色々な人と出会って、少しずつ変われたかな」
そう言って、彼女は遠い目をした。その表情に、俺の知らない彼女の過去が、確かに存在することを実感した。彼女が歩んできた道のりを想像すると、胸が締め付けられるような切なさを覚えた。同時に、そんな彼女が、今俺の目の前に座って、俺に話をしてくれているという事実が、たまらなく尊く感じられた。
時間はあっという間に過ぎた。カフェを出て、近くの公園を散歩した。夕暮れの柔らかな光が、友梨さんの横顔を照らす。その輪郭が、なんだかすごく綺麗に見えた。
公園のベンチに座って、二人で缶コーヒーを飲んだ。他愛もない話。でも、その一つ一つが、俺にとっては宝物みたいに感じられた。ふと、ベンチに置かれた友梨さんの手に目が留まる。細くて、でもどこか力を感じる指。その指が、缶コーヒーを持つたびに少しだけ震えているように見えたのは、気のせいだろうか。
「あのさ、友梨さん」
「ん? なに?」
俺は意を決して、以前から聞きたかったことを口にした。
「友梨さんって、どうしてこの仕事を選んだんですか?」
一瞬、友梨さんの顔から表情が消えた。来るべき質問だと思っていたのだろうか。それとも、触れられたくない部分だったのか。緊張が走る。
「どうして、か……」
友梨さんは、遠くを見つめながら、ゆっくりと話し始めた。
「色々な理由があるよ。お金のため、生活のため。でも、それだけじゃないかな。この仕事って、良くも悪くも、人の本音が見える場所なんだ。普段は仮面を被って生きてる人たちが、ここでは少しだけ素になる。その剥き出しの感情を見るのが、なんていうか……刺激的、なのかな」
彼女の声は、静かだった。そこには、自嘲でもなく、開き直りでもない、ただ事実を語るような響きがあった。その言葉を聞いて、俺は彼女の世界の深淵をほんの少し覗いたような気がした。彼女は、単にお金を稼ぐためにこの仕事をしているのではない。人間の「暗部」に触れることを、どこか楽しんでいる。そんな危うさを感じた。同時に、そんな彼女に、抗いがたい魅力を感じている自分に気づき、ゾッとした。
ベンチに座る友梨さんの横顔に、再び目をやる。夕日が沈みかけ、街に明かりが灯り始めていた。その光が、彼女の瞳に映り込み、宝石のようにきらめく。その輝きに、俺は吸い寄せられるように、彼女に顔を近づけた。
友梨さんは、驚いた様子もなく、ただじっと俺を見つめ返した。その視線は、挑発的でもなく、拒絶でもなく、ただ「何をしたいの?」と問うているように感じられた。
心臓が破裂しそうなほど鳴り響く。俺の理性は警鐘を鳴らしていた。彼女は「プロ」だ。この状況も、彼女にとっては想定内の出来事かもしれない。だが、俺の身体は、本能に突き動かされていた。彼女に触れたい。彼女の体温を感じたい。
ゆっくりと、俺は友梨さんの手に自分の手を重ねた。彼女の指が、ピクリと反応する。でも、振り払われることはなかった。細くて、少し冷たい彼女の指。その感触に、俺の指先から熱が伝わっていくのを感じた。
友梨さんは、何も言わなかった。ただ、俺の顔をじっと見つめている。その瞳の奥に、どんな感情が隠されているのか、俺には分からなかった。ただ、彼女の視線が、俺の全身を絡め取ってくるような気がした。
次の瞬間、俺は勇気を振り絞って、友梨さんの顔にさらに近づいた。そして、彼女の唇に、自分の唇を重ねた。
柔らかく、少しだけ冷たい感触。コーヒーの微かな苦味と、彼女自身の甘い香りが混ざり合う。一瞬の沈黙の後、友梨さんの唇が、ゆっくりと俺の唇に応えてくれた。
友梨さんの唇は、想像していたよりもずっと柔らかかった。初めてのキスは、ぎこちなく、少しだけ震えていたかもしれない。でも、友梨さんがそっと目を閉じてくれたとき、俺の緊張はほどけ、ただ彼女に触れていたいという純粋な衝動だけが残った。
唇が離れると、公園の静寂が戻ってきた。街灯だけが、俺たちの周りをぼんやりと照らしている。友梨さんは、目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐いた。その吐息が、俺の耳元にかかり、ゾクゾクとした快感が走った。
「……ねぇ、悠馬くん」
友梨さんが、少し掠れた声で俺の名前を呼んだ。彼女の目が開かれ、まっすぐ俺を見つめる。その瞳には、夕暮れの光とは違う、もっと深い、抗いがたい光が宿っていた。
「この後、どうする?」
その言葉が意味することを、俺は瞬時に理解した。心臓がドクンと大きく跳ねる。理性と本能が激しくせめぎ合う。これは、現実なのか? 憧れの世界に足を踏み入れ、その住人である彼女と、今、ここで……。
俺は、震える声で答えた。
「友梨さんの、行きたいところに、行きたい」
友梨さんは、何も言わずに立ち上がった。その仕草には、迷いも、躊躇いもなかった。まるで、この展開は全て織り込み済みだったかのように。俺は、ただ彼女の後をついていった。夜の街の喧騒の中を、二人並んで歩く。普段見慣れたはずの街並みが、なんだか全く別の場所のように感じられた。全てが、非現実的なフィルターを通して見えているようだった。
たどり着いたのは、彼女の部屋だった。オートロックのマンションの一室。鍵を開ける友梨さんの後ろ姿を見ながら、俺は一層緊張した。ここが、彼女のプライベートな空間。俺の全く知らない、彼女の「日常」。
部屋に入ると、そこには落ち着いた照明と、微かなアロマの香りが満ちていた。シンプルで、でもどこか女性らしい気遣いが感じられる部屋だった。ここに、彼女が一人で暮らしている。そう思うと、胸の奥がキュッと締め付けられた。
「狭いけど、適当に座って」
友梨さんは、そう言ってキッチンに向かった。何か飲み物を用意してくれるのだろうか。俺は言われるままソファに腰掛けた。部屋の中を見回す。テーブルの上には、数冊の本と、小さな観葉植物。壁には、シンプルな絵が飾られている。バーでの彼女からは想像もつかない、普通の、一人の女性の生活がそこにあった。そのギャップに、俺の心はざわついた。
友梨さんが、グラスに入った水を持って戻ってきた。俺の隣に座ると、ふわりと彼女の香りが漂う。昼間に公園で感じた、甘い香り。
「喉乾いたでしょ?」
そう言って、俺にグラスを渡してくれた。その指先が、一瞬だけ俺の手に触れる。そのたった一瞬の触れ合いで、全身に電気が走ったような感覚になった。
沈黙が流れる。何を話せばいいのか分からない。カフェや公園で話せたことも、この密室では全く思いつかない。俺はただ、グラスを握りしめ、下を向いていた。
すると、友梨さんが俺の手にそっと触れてきた。冷たい指先が、俺の熱くなった手の甲を撫でる。
「悠馬くん、緊張してる?」
優しく、問いかけるような声。その声を聞いた瞬間、俺の緊張はピークに達した。心臓がドンドンと鳴り響き、まるで身体から飛び出しそうだった。
「……はい」
正直に答えるしかなかった。こんな経験、初めてだから。彼女は、そんな俺を見て、フッと小さく笑った。
「可愛いね」
その言葉に、俺の顔はさらに熱くなっただろう。彼女の手が、俺の頬に触れる。柔らかく、温かい手のひら。そのまま、ゆっくりと顔を近づけてくる。
二度目のキスは、一度目よりもずっと深く、そして情熱的だった。友梨さんの唇が、俺の唇を貪るように吸う。舌が触れ合った瞬間、全身に稲妻が走った。俺は、彼女の香りと、温かさと、そして少しだけ混じるアルコールの匂いに酔いしれた。
キスは、どんどん熱を帯びていく。友梨さんの手が、俺の首筋に回され、さらに深く引き寄せられた。俺も、応えるように彼女の腰に手を回す。細い身体。その温かさが、俺の掌に直接伝わってくる。
「んっ……」
友梨さんの小さな喘ぎ声が、耳元で響く。その声に、俺の理性のタガは完全に外れた。もっと彼女に触れたい。もっと深く繋がりたい。その衝動だけが、俺の全身を支配した。
唇が離れ、友梨さんが見つめてくる。その瞳は、欲望と、そして少しの戸惑いが混ざり合っているように見えた。だが、すぐにその表情は消え、強い光だけが残った。
「悠馬くん……」
友梨さんの声は、熱を帯びていた。そのまま、彼女は俺の服に手をかけた。俺も、応じるように彼女のワンピースのジッパーに指をかける。滑り落ちる布地。露わになる白い肌。その眩しさに、息を呑んだ。
彼女の肌は、驚くほど滑らかで、温かかった。触れる場所全てから、火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。友梨さんも、俺の身体に触れるたびに、小さな声で喘いだり、身体を震わせたりする。その反応の一つ一つが、俺をさらに興奮させた。
この人は、多くの男を見てきたプロだ。そう頭では理解している。だが、今、俺の腕の中にいるのは、そんな「友梨さん」ではない。俺だけに、こんなにも熱く応えてくれる一人の女性、「友梨」だった。その事実に、俺の心は震えた。
肌と肌が触れ合うたびに、俺たちの間に言葉は必要なくなった。お互いの身体が、求め合うように引き寄せられる。友梨さんの吐息、小さな声、指先の動き。その全てが、俺に彼女の感情を伝えてくる。そして、俺も、自分の熱と、震えと、声で、彼女に応える。
「友梨……」
初めて下の名前を呼んだ。その瞬間、友梨さんの身体がピクリと震えた。そして、俺の首に腕を回し、一層強く抱きついてきた。
「悠馬くん……好き……」
掠れた、小さな声。それが、俺の耳に届いたとき、俺の時間は止まった。好き? この友梨さんが? あの、多くの客を見てきたはずの友梨さんが?
信じられなかった。でも、俺の腕の中の彼女の体温、震え、そしてその声には、偽りのない響きがあった。それは、彼女がプロの仮面を脱ぎ捨てて、一人の女性として、俺に伝えてくれた本音だったのだろうか。
俺も、彼女を強く抱きしめ返した。最初は好奇心だったかもしれない。背徳感を楽しんでいた部分もあったかもしれない。だが、彼女と時間を過ごし、彼女の弱さや強さ、そしてこの秘密の部屋で触れた温かさを知るにつれて、俺の気持ちは明確に変わっていた。これは、単なる「人生経験」ではない。これは、感情だ。彼女に対する、抗いがたい想い。
「友梨……俺も……」
俺の言葉は、彼女の唇に吸い込まれていった。その瞬間、俺たちの間にあった全ての境界線が消え去ったような気がした。年の差も、職業の違いも、過去も。ただ、求め合う二つの身体と、通い合った心だけがあった。
夜が更けていく。街の明かりが窓の外で瞬いている。俺たちの部屋だけが、世界から切り離された秘密の空間のように感じられた。友梨さんの寝息を聞きながら、俺は確信した。俺は、この女性を愛している。そして、彼女も、俺を愛してくれている。
最初は何の気なしに始めたマッチングアプリ。それが、こんな結末に繋がるなんて、想像もしていなかった。これは、俺が求めていた「人生経験」の、最も濃密で、そして最も愛おしい形だった。友梨さんの温もりを抱きしめながら、俺はそっと目を閉じた。