俺、岡本健二、41歳。ハンドルを握って全国を飛び回る、しがないトラック運転手だ。長い夜、ハイウェイをひた走る。星屑みたいな街の光を横目に、いつも一人だった。話し相手といえば、無線から流れる他愛ない会話か、独り言くらい。サービスエリアのネオンだけが、この孤独な旅の唯一の目印だった。
そんな俺が、まさかマッチングアプリに手を出すなんて、半年前の自分なら鼻で笑っていただろう。きっかけは、若い衆の
「意外といい出会いありますよ、岡本さん」
なんて無責任な一言だ。半信半疑で登録してみたものの、プロフィール写真なんて、どう撮ればいいのかもわからず、手探りだった。
何人かとメッセージのやり取りはしたが、どうも弾まない。仕事の話ばかりになるか、すぐに途絶えるか。まあ、こんなもんだよな、と思っていた。そんな時、彼女から「いいね!」が届いたんだ。
田口沙織、36歳。「サービスエリア店員」の文字に、思わず目を引かれた。同じ、高速道路の上で生きる人間。そこに、何だか運命的なものを感じたのは、きっと疲れた心のせいだっただろう。
メッセージのやり取りは、驚くほどスムーズだった。
「いつも長距離、お疲れ様です。私もサービスエリアで働いてるんで、ドライバーさんの大変さ、少しはわかるつもりです。」
その一文に、俺の心は鷲掴みにされた。今まで誰に言ってもらえなかった「お疲れ様」が、すとんと胸に落ちてきた。
「そうなんですね!どこのサービスエリアですか?」
すぐに返信した。
彼女は、俺が関東から関西へ向かう時によく利用するサービスエリアで働いていると言う。奇遇だった。休憩で立ち寄るたびに、何気なく利用していたあの場所で、彼女は毎日俺たちドライバーのために働いていたのか。
それから、メッセージのやり取りは一気に密度を増した。お互いの休憩時間や、今日の天気、どこまで来たか、これからどこへ向かうか。他愛ないことだけど、それが猛烈に楽しかった。
「今日は〇〇サービスエリアにいますよー」
「え、俺も今向かってるとこ!もしかしたら会えるかもですね!」
そんなメッセージに、胸が高鳴る。サービスエリアに着くたびに、キョロキョロと彼女の姿を探すようになった。店員さんの制服を見るたびに、もしかして、と期待する。でも、その度に違う人で、少しだけがっかりする。そんな日々が、メッセージだけだった関係に、リアルな期待感を植え付けていった。
初めて電話で話した夜、俺はトラックの運転席にいた。サービスエリアの広い駐車場に停めて、エンジンを切る。辺りは静まり返り、遠くを走る車の音だけが聞こえる。スマホを耳に当てると、少し緊張したような、でも温かい声が聞こえてきた。
「あ、岡本さん?初めまして、沙織です。」
「あ、どうも、岡本です。メッセージではどうも。」
ぎこちない挨拶。でも、画面越しで見ていた彼女の写真と、その声が繋がった瞬間、何とも言えない感動があった。
沙織さんは、メッセージの通りの気さくで明るい人だった。サービスエリアでの仕事の話、大変なこと、嬉しいこと。俺は俺で、運転中の出来事や、各地の面白いサービスエリアの話をした。話は尽きなかった。気づけば、あっという間に時間が過ぎていた。
「岡本さんの話、聞いてるとサービスエリアがすごく親しみのある場所に感じられますね。」
沙織さんの言葉に、俺は照れくさかった。
電話を切った後、しばらく駐車場の静寂に耳を澄ませた。さっきまで沙織さんの声が響いていた空間が、今はひっそりとしている。でも、心の中は温かかった。たった数十分の会話が、何日もの孤独な運転で冷え切っていた俺の心を、じんわりと溶かしていくようだった。
次にサービスエリアに立ち寄った時、メッセージで「今日、夜勤なんです」と聞いていたから、売店を覗いてみた。もしかしたら、いるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら。レジの列に並んで、何気なく店内を見渡す。お土産コーナー、フードコート、そしてレジ。
その時、目が合った。
マスク越しでもわかる、あのメッセージの写真の優しい目元。制服を着て、テキパキとレジを打っている沙織さんが、そこにいた。
心臓がドクンと跳ねた。まるで初めて告白する中学生みたいに、柄にもなく緊張している自分がいた。
レジに近づくと、沙織さんは俺に気づいたようだった。マスクの下で、きっと微笑んでくれたんだと思う。
「あ、岡本さん!」
声が弾んでいるように聞こえた。俺も思わず頬が緩む。
「沙織さん、やっと会えましたね。」
短い言葉だったけど、お互いの「やっと」に、これまでのメッセージのやり取りで積み重ねてきた時間と気持ちが詰まっている気がした。
「今日はお仕事ですか?」
「ええ、納品があって。沙織さんは夜勤なんですね。大変ですね。」
「岡本さんこそ、ずっと運転でしょ?お疲れ様です。何か買っていかれますか?」
当たり障りのない会話。でも、目の前に沙織さんがいるという事実が、全ての言葉に特別な響きを与えた。俺は、手に取った缶コーヒーを差し出した。沙織さんがレジを通して、金額を告げる。その手元、指先に目がいく。メッセージでしか繋がっていなかった人が、今、目の前で触れることができる距離にいる。それが、何だか不思議で、そして嬉しかった。
会計を済ませて、缶コーヒーを受け取る時、指先がかすかに触れた。ピリッと、電流が走ったような感覚。沙織さんも、少しだけ目を見開いたように見えた。ほんの一瞬の触れ合いだったけど、それが俺の心に、新しい感情の波を起こした。
「気をつけて運転してくださいね。」
沙織さんの優しい声に送られて、俺は駐車場へ向かった。手に持った缶コーヒーが、さっきまでとは違う温かさを持っているように感じた。サービスエリアを出て、再び高速道路に乗る。バックミラーに、小さなサービスエリアの明かりが見える。あの場所に、沙織さんがいる。そう思うだけで、いつもの夜間走行が、少しだけ明るくなった気がした。孤独な旅に、一筋の光が差し込んだ瞬間だった。
サービスエリアでの偶然の出会いから、俺たちの関係は一気に加速した。メッセージだけでなく、時間の合う時は短い電話もするようになった。お互いの声を聞くだけで、日々の疲れが癒やされていくのを感じた。沙織さんの明るい声、時折聞こえる笑い声。それが、俺の長距離運転の何よりの励みになった。
次に会えたのは、その一週間後だった。再び、沙織さんの働くサービスエリア。今回は、少し時間に余裕があった。メッセージで事前に「〇時くらいに着きます」と伝えておいた。沙織さんは休憩時間に合わせて、待っていてくれた。
「岡本さん!」
駐車場で再会した時、沙織さんは満面の笑みだった。その笑顔を直接見られることが、こんなにも嬉しいなんて。
「沙織さん、お待たせしました。」
二人でサービスエリアのベンチに座った。缶コーヒーを片手に、他愛ない話をする。仕事の話、休みの日の過ごし方、好きな食べ物。短い時間だったけど、その全てが貴重だった。
「岡本さんって、運転してる時、どんなこと考えてるんですか?」
沙織さんの質問に、少しだけ戸惑った。普段、そんなこと誰にも聞かれたことがなかったから。
「うーん、次の休憩場所のこととか、天気のこととか。あとは、まあ…ぼんやりといろんなことかな。」
そう言って、少しだけ沙織さんの顔を見た。彼女は、俺の言葉をじっと聞いてくれている。その視線が、心地よかった。
「そうなんですね。なんか、すごいなって思います。一人で長い時間、運転するのって。」
「まあ、慣れちゃいましたけどね。」
「でも、大変でしょ?眠くなったりとか。」
「そりゃあ、まあ。でも、最近は沙織さんとメッセージしてる時間とか、電話で話すのが楽しみで、頑張れてますよ。」
照れ隠しに、少し冗談めかして言ったつもりだったけど、沙織さんはふっと微笑んだ。
「嬉しいな。私も、岡本さんと話してると元気出ます。」
その言葉に、俺の心は温かいもので満たされた。この人といると、疲れた心が軽くなる。孤独な毎日が、少しだけ彩りを持つ。そう感じ始めたのは、この頃だった。
休憩時間が終わり、沙織さんが立ち上がった。
「そろそろ戻らないと。短い時間でしたけど、ありがとうございました、岡本さん。」
「こちらこそ。また、連絡します。」
沙織さんが店に戻っていく後姿を見送りながら、俺はベンチに一人座っていた。さっきまで沙織さんが座っていた場所が、まだ少しだけ温かい気がした。
それからも、俺たちはサービスエリアで短い時間だけど、何度も会った。会うたびに、お互いの距離は縮まっていった。最初はぎこちなかった会話も、自然な流れになった。仕事の愚痴も、将来の不安も、何でも話せるようになった。沙織さんは、いつも真剣に俺の話を聞いてくれた。その優しい瞳を見ていると、この人にだったら、自分の弱いところも見せてもいいかもしれない、そう思えるようになった。
二人でいると、時間が過ぎるのがあっという間だった。別れ際には、いつも名残惜しさが募る。次にいつ会えるかわからない。サービスエリアという特殊な場所での出会いだから、それは仕方ないことだった。でも、その「次に会えるかわからない」という不安が、会えた時の喜びを、より一層大きなものにした。
ある夜、電話で話していた時、沙織さんがぽつりと漏らした。
「たまに、すごく寂しくなるんですよね。夜、一人でいると。」
その言葉に、俺の心臓が締め付けられる思いがした。サービスエリアで働く彼女も、俺と同じように孤独を抱えている。高速道路という、たくさんの人が行き交う場所で働きながら、きっと誰にも言えない寂しさを感じているんだ。
「俺もですよ。長い時間、一人で運転してると、ふと、何のためにこんなことしてるんだろうって、虚しくなる時があります。」
正直な気持ちを伝えた。沙織さんは、静かに俺の言葉を聞いていた。
「でも、岡本さんと話すようになってから、少し変わりました。」
「え?」
「誰かが待っててくれる、って思うと、運転も頑張れるし、サービスエリアで働くのも楽しくなったんです。岡本さんのおかげです。」
沙織さんの声が、少し潤んでいるように聞こえた。俺も、ぐっと胸が熱くなった。この感情は、なんだろう。今まで感じたことのない、温かくて、切なくて、そして愛おしいような気持ち。
「沙織さん…俺もですよ。沙織さんと出会ってから、俺の毎日も変わりました。サービスエリアが、ただの休憩場所じゃなくなった。沙織さんがいる場所だって思うと、向かうのが楽しみで仕方ないんです。」
電話口で、お互いの息遣いだけが響く。沈黙が、言葉以上に多くのものを伝えていた。
その夜、俺は決めた。この気持ちを、沙織さんに伝えよう。そして、もし沙織さんも同じ気持ちでいてくれるなら、この関係を、もっと先に進めたい。サービスエリアでの短い時間だけでは、もう物足りない。
次のメッセージで、俺は沙織さんに尋ねた。
「今度の休み、沙織さんは何か予定ありますか?」
既読が付いて、数秒後。
「今のところ、ないですよ。何かあるんですか?」
ドキドキしながら、返信する。
「もしよかったら、サービスエリアじゃなくて…ちゃんと、どこかで一緒に食事でもしませんか?」
送信ボタンを押した後、心臓がバクバク鳴っていた。沙織さんの反応が怖い。もし、迷惑だったらどうしよう。今の心地いい関係が、壊れてしまうかもしれない。
数分後、返信が来た。
「はい、喜んで。」
たった四文字。でも、その四文字が、俺の人生を大きく動かす予感がした。サービスエリアから始まった俺たちの物語は、ここから、全く新しい章へと進んでいくのかもしれない。期待と不安が入り混じった感情を抱えながら、俺は次のメッセージを待った。どこで、どんな時間を過ごすのだろうか。想像するだけで、胸が高鳴った。サービスエリアの片隅で生まれた小さな灯火が、これからどんな炎になるのか。俺は、もう止まれなかった。
沙織さんからの「はい、喜んで」のメッセージを見た瞬間、俺はハンドルを握りながら、柄にもなく一人でニヤけてしまった。周りから見たら、完全に怪しいおっさんだっただろう。サービスエリアという「職場」以外の場所で、沙織さんと二人で会える。それが、どれだけ特別なことか。長距離運転の疲れも、一瞬で吹き飛んだ。
次に沙織さんとメッセージでやり取りする時は、指先がほんの少し震えた。どこで会うか、何を食べるか。普段は適当でいい加減な俺が、やけに慎重になっている。沙織さんの好きなものを聞いたり、おすすめのお店を調べたり。まるで若い頃に戻ったみたいだった。
結局、沙織さんが
「静かで美味しいイタリアンがいいな」
と言ってくれて、トントン拍子に店が決まった。仕事のスケジュールを調整して、沙織さんの休みに合わせる。待ち合わせ場所は、サービスエリアから少し離れた、都心の駅だった。トラックを駐車場に置いて、電車に乗って向かう。なんだか新鮮な気分だった。
待ち合わせの時間より、かなり早く着いてしまった。駅の改札前でソワソワしながら待つ。周りを行き交う人たちが、みんな楽しそうに見える。俺も、こんな風に誰かと待ち合わせをするなんて、いつぶりだろうか。
「岡本さん!」
聞き慣れた、でもいつもと少し違う響きの声が、俺を呼んだ。顔を上げると、そこに沙織さんが立っていた。サービスエリアの制服じゃない。淡いピンクのワンピースを着て、小さなハンドバッグを手に持っている。髪も綺麗にセットしてあって、いつもの何倍も素敵に見えた。

「沙織さん…!あ、あの、すごく綺麗ですね。」
気がつけば、そんな陳腐な言葉が口から出ていた。顔が熱くなるのを感じた。沙織さんは、少し照れたように微笑んだ。
「もう、岡本さんったら。ありがとうございます。岡本さんも、運転してる時とは全然違いますね。」
俺は、私服のポロシャツとチノパンという、いつもの格好だったけど、沙織さんがそう言ってくれたのが嬉しかった。
「そうですか?まあ、仕事じゃないんで。」
二人で並んで歩き出す。他愛ない話をしながら。サービスエリアで会っていた時は、いつも時間の制約があった。でも、今は違う。ゆっくりと、流れる時間を一緒に感じられる。それが、たまらなく幸せだった。
予約したイタリアンレストランは、落ち着いた雰囲気の店だった。窓際の席に案内されて、向かい合って座る。テーブルを挟んで沙織さんを見るのは、初めてだった。サービスエリアでは、いつもカウンター越しだったり、ベンチで隣同士だったから。
メニューを見ながら、今日の料理を相談する。「これ、美味しそうですね」「これもいいな」なんて言いながら、お互いの好みを知っていく。
料理が運ばれてきて、グラスを合わせた。カチン、と小さな音が響く。
「改めて、乾杯。」
「乾杯。」
沙織さんの笑顔が、グラス越しにキラキラと輝いて見えた。
食事をしながら、話は尽きなかった。サービスエリアでの裏話、仕事で経験した面白いこと、子供の頃の夢。今までメッセージや電話で話していたことが、目の前にいる沙織さんの表情を見ながら話せる。それが、こんなにも心地いいなんて。
「岡本さんって、意外とロマンチストなんですね。」
俺が、星空の下で運転するのが好きだって話をした時、沙織さんがそう言った。
「ええ?俺がですか?」
「うん。だって、星見ながら運転するなんて、普通の人、なかなか考えないですよ。」
「まあ、たまにはそういう感傷に浸ることもありますよ。長い夜だと、特に。」
「ふふ、なんか、岡本さんのこと、ちょっとだけ深く知れた気がします。」
沙織さんの優しい眼差しに、俺は吸い込まれそうになった。この人は、俺の話を、俺という人間を、本当に知ろうとしてくれている。それが、嬉しかった。
食事の終盤、少し酔いも回ってきて、会話はさらに砕けたものになった。
「沙織さん、サービスエリアにいる時と、今日みたいに街にいる時と、どっちが好きですか?」
少し意地悪な質問をしてみた。沙織さんは、少し考えてから答えた。
「うーん…サービスエリアは、私の日常だから落ち着くかな。でも、こうやって岡本さんと二人で、ゆっくり時間が過ごせるのは、今日が初めてだから…今日、すごく楽しいです。」
「そっか…よかった。」
俺の心臓が、またドクンと鳴った。
店を出て、夜の街を二人で歩く。賑やかな通りの喧騒が、かえって二人の空間を際立たせるようだった。すぐ横を歩く沙織さん。ワンピースの裾が、風に揺れる。
「なんか、不思議な感じですね。」
沙織さんが、ふいにそう言った。
「不思議?」
「はい。いつもは仕事モードの時にしか会わないのに、こうしてプライベートで、しかも遠くまで来て会うなんて。」
「確かにそうですね。俺も、沙織さんがサービスエリアの制服着てないのが、まだちょっと慣れないというか…」
そう言って笑い合う。二人だけの、特別な時間。
橋の上を歩いていると、夜景が綺麗に見えた。ビルの明かりがキラキラと輝いて、まるで宝石箱みたいだった。
「わあ…綺麗。」
沙織さんが立ち止まって、夜景を見上げる。その横顔が、光に照らされて幻想的に見えた。俺も隣に立ち止まる。
「ほんとだ。運転席から見る夜景とは、また違いますね。」
沙織さんが、ふっと俺の方を振り向いた。目が合った。夜景の光が、沙織さんの瞳の中で揺れている。吸い込まれるような、深い瞳。
沈黙が、流れる。周りの喧騒も、遠ざかっていくようだ。お互いの呼吸の音だけが、聞こえるような気がした。
「あの…」
沙織さんが、何か言いかけたその時だった。俺は、衝動を抑えきれなかった。気がつけば、沙織さんの肩に手を伸ばしていた。
沙織さんは、驚いたように少しだけ身をこわばらせたけど、拒まなかった。俺は、そのままゆっくりと、沙織さんの肩を引き寄せた。沙織さんの体が、俺の胸にそっと寄りかかる。柔らかい感触。そして、ほんのりと甘い沙織さんの香り。
「沙織さん…」
名前を呼ぶ声が、少し震えているのが自分でもわかった。沙織さんは、何も言わずに俺の胸に顔を埋めたままだった。背中にそっと腕を回す。沙織さんの体が、さらに俺に近づくのを感じた。
夜景が、二人の周りで瞬いている。このまま時間が止まってしまえばいいのに、と思った。サービスエリアの片隅で始まった二人の関係が、今、この街の夜景の下で、確かに形を変えようとしていた。孤独な旅路で、探し求めていた光が、今、目の前にいる。この温かさを、もう手放したくない。
沙織さんの髪に、そっと頬を寄せる。柔らかくて、温かい。
「沙織さん…好きだ。」
声に出していた。抑えきれない感情が、溢れ出した。沙織さんの体が、俺の腕の中でピクリと動いた。そして、顔を上げて、俺を見つめた。その瞳は、少し潤んでいるように見えた。
「岡本さん…」
沙織さんの声も、震えていた。そして、沙織さんも、ゆっくりと俺の首に腕を回してきた。ぎゅっと、抱きしめ返される。
夜風が、二人の間を吹き抜けていく。だけど、心は温かかった。お互いの体温を感じる。それが、何よりの安心だった。
どれくらいの時間、そうしていたのか分からない。ただ、この瞬間が、永遠に続けばいいと願っていた。
沙織さんが、そっと体を離した。顔は赤くなっていたけど、その瞳はまっすぐに俺を見つめていた。
「私も…好きです、岡本さん。」
その言葉に、俺は世界の中心にいるような気持ちになった。孤独な運転で、いつも一人だった俺に、こんなにも愛おしい存在ができたんだ。サービスエリアの片隅で始まった小さな出会いが、こんなにも大きな感情に繋がるなんて。
この夜、俺たちはもっと深く、お互いの心と体を求め合った。それは、寂しさを埋めるためなんかじゃない。お互いの孤独を知っているからこそ、より深く、求め合う愛だった。サービスエリアでの短い休憩時間では満たされなかった、お互いの全てを受け入れたいという強い想い。
街の明かりの下で、俺たちは一つになった。お互いの体の全てを感じ、求めるままに触れ合った。沙織さんの甘い声、吐息、肌の温かさ。その全てが、俺の理性を吹き飛ばした。長距離運転で培われた体力と、沙織さんへの抑えきれない情熱が、一つになる。
夜が更け、街の灯りがまばらになる頃、俺たちは体を寄せ合って眠りについた。隣で眠る沙織さんの寝顔を見ながら、俺は思った。もう、俺は一人じゃない。この温もりを、この先ずっと、感じていたい。サービスエリアで始まった物語は、まだ始まったばかり。この恋が、どこまで俺たちを連れていくのか、今はまだ分からない。でも、一つだけ確かなことがある。俺は、沙織さんを愛してる。
朝目覚めて、一番に隣に沙織さんがいるのを感じた時、俺は人生で初めて、こんなにも幸せな朝を迎えたと思った。
目を覚ますと、柔らかな朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。そして、腕の中に温かい重みを感じる。沙織さんだ。すぐそこに、沙織さんの寝顔があった。穏やかで、愛おしい寝顔。規則正しい寝息が聞こえる。
昨夜のことが、洪水のように蘇ってきた。街の夜景の下で、お互いの気持ちを確かめ合ったこと。そして、その後に、お互いの全てを曝け出して一つになったこと。体の奥底から湧き上がるような熱、肌と肌が触れ合う感触、沙織さんの甘い声。その全てが、俺の心を、体を目覚めさせていく。
そっと、沙織さんの髪を撫でる。シルクのような滑らかさ。沙織さんが、ん、と小さく唸って、さらに俺に擦り寄ってきた。その仕草一つ一つが、たまらなく可愛かった。
「…ん…岡本さん…」
沙織さんが、ゆっくりと目を開けた。まだ眠たげな、潤んだ瞳が俺を見つめる。
「おはよう、沙織さん。」
「…おはよう…」
掠れた声。二人で、しばらく何も言わずに見つめ合った。この瞬間が、どれだけ尊いか。今まで、こんな朝を迎えたことなんてなかった。いつも、一人だったから。ビジネスホテルの無機質な天井を見上げて、今日のルートを確認する。そんな朝しか知らなかった。
沙織さんが、ふわりと微笑んだ。その笑顔を見て、俺も自然と顔が緩む。
「なんだか…夢みたい。」
沙織さんが、俺の胸に顔を埋めながらそう言った。
「夢じゃないですよ。ちゃんと、ここに沙織さんいます。」
沙織さんの柔らかな髪に頬を寄せながら、俺は言った。この温もりこそが、現実だ。
その日から、俺たちの関係は大きく変わった。サービスエリアでの短い休憩時間でも、以前とは違う空気になった。ただの顔見知りでも、メッセージの相手でもない。「愛し合っている二人」として会うんだ。
沙織さんが働いているサービスエリアに立ち寄るたび、ドキドキした。カウンター越しに目が合った時、沙織さんが見せる、俺だけにわかる、ほんの一瞬の照れたような笑顔。それが、たまらなく嬉しかった。コーヒーを受け取る時に、指先が触れるだけで、全身に電気が走るような感覚。周りから見れば、ただの店員とお客さんだ。でも、俺たちにとっては、特別な時間だった。
休憩室で、こっそり二人きりになれた時もあった。短い時間だけど、沙織さんの手に触れたり、そっと抱きしめたり。
「もう行かないと…」
沙織さんが名残惜しそうに言うたび、俺の心も締め付けられた。
「次、いつ来られるの?」
「うーん、まだわからないな。でも、必ず連絡する。」
そんな会話を交わすたび、この仕事の厳しさを痛感した。いつ、どこで会えるか分からない。物理的な距離が、常に俺たちの間に立ちはだかる。
でも、そんな不安や寂しさを埋めるかのように、メッセージや電話の時間は、さらに密になった。仕事が終わって、トラックの中で一人になった時、沙織さんに電話をする。
「今日ね、こんなお客さんがいてさ…」
沙織さんの話を聞いていると、サービスエリアでの沙織さんが目に浮かぶようだった。
「俺は、今日は〇〇まで来たよ。今、星がすごく綺麗なんだ。」
俺が見ている景色を、沙織さんに伝えたかった。同じ空の下にいることを、感じてほしかった。
電話の向こうで、沙織さんが
「へえ…綺麗なんだね」
と静かに聞いてくれる。その声に、心が安らぐ。一日の疲れが、溶けていくようだった。
ある時、沙織さんが言った。
「ねえ、岡本さん。いつか、ずっと一緒にいられる日が来るのかな。」
その言葉に、俺は何も答えられなかった。トラック運転手という仕事は、常に移動だ。沙織さんも、サービスエリアという場所に縛られている。簡単に「うん、大丈夫だよ」とは言えなかった。
沈黙が流れる。沙織さんは、何かを察したようだった。
「…ごめんね、変なこと聞いて。」
「いや…俺も、ずっと考えてるよ。沙織さんと一緒にいたいって。」
正直な気持ちを伝えた。
「でも、今の仕事、すぐに辞めるわけにもいかないし…沙織さんも、ここで働いて長いんでしょ?」
「うん…慣れてるし、お客さんと話すのも好きだし…」
お互いの現実が、重くのしかかる。
そんな時、沙織さんが、ふっと小さく笑った。
「でもね、不思議なんだ。」
「不思議?」
「うん。岡本さんと出会う前は、一人でいるのが当たり前だったし、別に寂しいって思うことも、そこまでなかったんだ。麻痺してたのかな。」
「麻痺…」
「そう。でも、岡本さんと話すようになって、会えるようになって…一人でいると、前よりもずっと寂しく感じるようになったの。それは、岡本さんの温かさを知っちゃったからかな。」
沙織さんの言葉が、俺の心臓を鷲掴みにした。それは、俺も同じだったからだ。沙織さんと出会う前の孤独は、当たり前のものだった。でも、沙織さんの温もりを知ってしまった今、一人でいることが、これほどまでに寂しいことだったのかと思い知らされた。
「俺も、同じだよ、沙織さん。」
俺は、そう答えるのが精一杯だった。
「岡本さんの声聞くと、元気が出る。運転頑張ろうって思える。次に会えるのを考えたら、長距離も苦じゃないよ。」
「沙織さんがサービスエリアで待っててくれるって思うと、そのサービスエリアまで、あと何キロだって計算しちゃうんだ。子供みたいで恥ずかしいけど。」
二人で、少しだけ笑った。でも、その笑い声の中には、お互いの孤独と、それを埋め合う愛おしさが含まれていた。
遠距離恋愛というには、あまりにも特殊な俺たちの関係。サービスエリアとトラックという、無機質な空間で育まれた愛。でも、その愛は、誰よりも深く、真剣だった。お互いの孤独を知っているからこそ、相手の存在が、何よりも力になることを知っていたから。
ある晩、沙織さんから電話がかかってきた。いつもより、声が弾んでいる。
「あのね、岡本さん!今度、連休が取れたの!」
「本当か!?それはすごい!」
サービスエリアの店員が連休を取るのは、なかなか難しいことだ。
「うん!だから…もし岡本さんも大丈夫だったら…今度こそ、ゆっくり一緒に過ごしたいな、と思って。」
その言葉に、俺の心臓が高鳴った。サービスエリアでもない、街でもない。二人だけで、誰にも邪魔されずに、ゆっくりと時間を過ごせる。
「大丈夫だ!どこへ行こうか?沙織さんの行きたいところ、どこでも行くよ。」
「ふふ、嬉しいな。どこがいいかな…ねえ、温泉に行かない?」
沙織さんの提案に、俺は即答した。
「行こう!絶対行こう!」
連休の日程を調整し、二人で温泉旅行の計画を立てた。初めての、二人きりの旅行。サービスエリアでの出会いから始まった俺たちの関係が、ここまで来たのかと思うと、感慨深かった。
旅行当日。待ち合わせ場所で沙織さんと会った時、俺は感動で胸がいっぱいになった。沙織さんの笑顔が、本当に嬉しそうで、幸せそうで。この笑顔を守りたい、そう強く思った。
温泉旅館で過ごした時間は、まるで夢のようだった。美味しい食事、露天風呂、そして、二人きりの夜。サービスエリアでの短い休憩時間とは全く違う、満たされた時間だった。
夜、布団の中で沙織さんを抱きしめながら、俺は言った。
「沙織さん…俺、沙織さんと出会えて、本当に良かった。」
沙織さんは、俺の胸に顔を埋めて、小さく頷いた。
「私もだよ、岡本さん。もう、岡本さんのいない生活は考えられない。」
その言葉に、俺は沙織さんをさらに強く抱きしめた。お互いの体温が、心臓の鼓動が、直接伝わってくる。それが、何よりも確かな愛の証だった。
この旅行を経て、俺たちはさらに深い絆で結ばれた。サービスエリアでの短い立ち寄りでも、以前よりもずっと、お互いを求める気持ちが強くなった。仕事の合間に、少しだけ触れ合う指先。見つめ合う時間。それだけで、日々の孤独や疲労が癒やされていくのを感じた。
トラックの運転席に戻るたび、寂しさは募る。でも、次に沙織さんに会えるという希望が、俺を前へ進ませる。サービスエリアのネオンが、以前は単なる休憩の目印だった。でも今は、愛しい人が待っていてくれる場所を示す、希望の光に見える。
俺たちの恋は、キラキラしたドラマチックなものではないかもしれない。高速道路という無機質な舞台で始まり、サービスエリアという場所で育まれた、地味な恋だ。でも、その地味さの中に、確かな温もりと、深い愛情が宿っている。お互いの孤独を知っているからこそ、相手の存在が、どれだけ尊いかを知っている。
これからも、物理的な距離に悩まされることはあるだろう。すれ違いもあるかもしれない。でも、あのサービスエリアでの出会い、街での夜、そして温泉旅行で育まれた絆があれば、きっと乗り越えられる。
次に沙織さんに会えるサービスエリアの名前を心の中で呟きながら、俺は再びアクセルを踏み込んだ。夜空には、無数の星が瞬いている。あの星の一つ一つが、サービスエリアの明かりのように、誰かの帰りを待っている光なのかもしれない。そして、俺の進む先には、俺を待っていてくれる、たった一つの、特別に温かい光がある。
サービスエリアの出会いから始まった、俺たちの物語。それは、孤独な夜空を翔ける、二人の流星が、ようやく見つけた終着駅への旅路だ。その終着駅は、きっと、お互いの心の中にあったのだ。