交錯する思惑
菜々が隼人からのメッセージに返信したのは、その日の深夜だった。
短く「ありがとうございます。ぜひ」とだけ打ち込み、送信ボタンを押した瞬間、彼女の心臓は激しく高鳴った。
それは、長らく悠馬の支配下に置かれていた心に、新たな風が吹き込んだような感覚だった。
同時に、罪悪感のようなものが胸をよぎる。
悠馬という絶対的な存在から、少しだけ離れようとしている自分に、戸惑いを覚えていた。
翌日、オフィスで隼人と顔を合わせた時、菜々はいつも以上に緊張した。
隼人はいつものように穏やかな笑顔で「坂井さん、おはようございます」と声をかけてきたが、その瞳の奥に、わずかな期待の色が見えたような気がして、菜々は胸が締め付けられた。
「おはようございます、杉本さん」

菜々は、何気ないふりをして挨拶を返したが、その声は微かに震えていた。
悠馬が、二人のやり取りに気づかないことを祈るばかりだった。
しかし、悠馬の鋭い洞察力は、僅かな変化も見逃さない。
「おい、菜々。そのデザイン、まだ手直しが必要だ。もっと情熱的に、もっと大胆に表現しろ」
悠馬の声が、突然オフィスに響き渡った。
彼の視線は、菜々のディスプレイに向けられているが、その言葉には、菜々への個人的なメッセージが込められているようだった。
まるで、隼人との間に芽生えかけた何かを、力ずくで引き裂こうとしているかのように。
菜々の身体が、ビクリと硬直した。
「…はい」
菜々は、消え入りそうな声で答えるしかなかった。
隼人もまた、悠馬の言葉の裏に込められた意味を察したようだった。
彼の表情から、一瞬にして笑顔が消え、眉間に深い皺が刻まれた。
その日の夜、悠馬は菜々を自宅に呼び出した。
いつものことながら、有無を言わせない命令口調だった。
菜々は、まるで鎖に繋がれた犬のように、彼の元へと向かった。
玄関のドアを開けた瞬間、悠馬の匂いが、菜々の鼻腔をくすぐる。
それは、悠馬の支配を象徴する、甘く、そして重い匂いだった。
「遅いぞ、菜々」
悠馬の声は、普段よりも低く、菜々の心臓を鷲掴みにするかのようだった。
彼の瞳は、暗闇の中で獲物を狙う獣のように光っている。
「ごめんなさい…」
菜々は、ただ謝るしかなかった。
悠馬は、菜々の腕を掴み、そのままリビングへと引き入れた。
彼の指が、菜々の二の腕を強く締め付ける。
その痛みは、菜々の身体に、悠馬の絶対的な支配力を刻み込むかのようだった。
「お前は、俺がいなければ何もできない。俺の言うことを聞いていれば、それでいいんだ」
悠馬は、菜々をソファへと押し倒した。
菜々の身体が、沈み込むソファのクッションに柔らかく包まれる。
悠馬の身体が、菜々の上に覆いかぶさる。
彼の熱い吐息が、菜々の頬にかかる。
「っ…やめ…」
菜々は抵抗しようとしたが、その言葉は途中で途切れた。
悠馬の唇が、菜々の唇を塞いだのだ。
荒々しく、そして貪欲に絡みつく舌。
菜々の身体は、悠馬の触れる場所全てに反応し、熱を帯びていく。
悠馬の指が、菜々の服のボタンを外し、その柔らかな肌を露わにする。
ブラジャーの紐が、音もなく滑り落ちた。
「菜々…お前は、俺にしか感じられない身体なんだ」
悠馬の囁きは、菜々の心に深く突き刺さる。
彼の指が、菜々の胸を優しく揉みしだく。
弾力のある柔らかな感触が、悠馬の指に伝わる。
菜々の身体は、電気に打たれたようにピクリと跳ねた。胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
それは、羞恥と、そして抗えない快感の混じり合った感情だった。
その頃、青山莉子は、SNSで悠馬の投稿をチェックしていた。
楽しげに笑う悠馬と、見知らぬ女性たちの写真。
莉子の胸に、深い嫉妬が湧き上がってきた。
悠馬は、自分にとって特別な存在だと信じていたのに。
彼の言葉、彼の優しさが、全て嘘のように思えた。
「悠馬さん…」
莉子は、スマホを握り締めた。
彼の裏切りに、莉子の心は深く傷ついていた。
それでも、悠馬を失うことへの恐怖が、彼女の心を縛り付けている。
彼なしでは、自分の存在意義を見出せない。
その依存心が、莉子を苦しめていた。

杉本隼人は、その夜もジムで汗を流していた。
サンドバッグを叩く彼の拳は、以前よりも強く、そして速くなっていた。
彼の心の中で、悠馬への憎悪が、さらに深い根を張っていく。
菜々を救い出したい。その思いが、彼の身体を突き動かしていた。
「あいつを…許さない…!」
隼人の口から、低い唸り声が漏れた。
彼の瞳には、復讐の炎が宿っている。
菜々の疲れた横顔、そして悠馬の傲慢な態度。全てが、隼人の怒りを増幅させていた。
翌朝、菜々は憔悴しきった顔でオフィスに現れた。
その歩みは重く、瞳は焦点が定まらないかのようだった。
デスクに座ると、隼人が心配そうな顔で近づいてきた。
「坂井さん、大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」
隼人の声は、菜々の耳に優しく響いた。
菜々は、ハッと顔を上げ、隼人を見た。
彼の瞳には、純粋な心配の色が宿っている。
その優しさが、菜々の心を溶かしていく。
「…大丈夫です。ありがとうございます」
菜々は、掠れた声で答えた。
その言葉の裏には、言いようのない疲労と、助けを求めるような感情が込められていた。
隼人は、そんな菜々の様子に、胸が締め付けられるような思いがした。
「無理はしないでくださいね。何かあったら、いつでも言ってください」
隼人の言葉は、菜々の心に温かい光を灯した。
それは、悠馬から決して得られない、人間らしい温かさだった。
菜々の心の中で、悠馬への依存が少しずつ解け始め、隼人への信頼が芽生え始めていた。
しかし、悠馬の視線は、常に菜々へと向けられていた。
彼の瞳は、菜々と隼人の間に芽生え始めた微かな繋がりを、見逃さなかった。
悠馬の心の中で、不快な感情が湧き上がる。
菜々が、自分の支配から逃れようとしているのか。
その予感は、悠馬の傲慢な心を苛んだ。
「菜々。今日の打ち合わせ、終わったら俺のオフィスに来い。二人で、じっくりと話をしよう」
悠馬の声が、オフィスに響き渡った。
その言葉には、拒否を許さない響きがあった。
菜々の身体が、ビクリと震える。
彼女の心の中で、悠馬への恐怖と、隼人への微かな希望が、複雑に交錯していた。
破滅へと向かう歯車は、さらに加速していく。