恋愛ストーリー

深淵のポートレート 第3章

秘めたる想い


菜々の心は、深い霧の中にいるかのようだった。

悠馬の支配と、莉子の存在。二つの影が、彼女の日常を覆い隠していた。

オフィスで悠馬と莉子が談笑している姿を見るたびに、菜々の胸は締め付けられた。

彼女は、自分の感情がまるで電流のように体中を駆け巡るのを感じた。

莉子の甲高い笑い声が、耳鳴りのように頭の中で響き、悠馬の甘い声が、昨夜の記憶を呼び起こす。

その度に、菜々は自分の存在が希薄になっていくような感覚に襲われた。

ある日の午後、菜々がデスクでデザイン画に集中していると、背後から優しい声が聞こえた。

「坂井さん、少し、いいですか?」

振り返ると、杉本隼人が立っていた。

彼の表情は、いつも穏やかで、その声もまた、菜々の心を安らげる力を持っていた。

悠馬の鋭い視線や、莉子の高圧的な態度に慣れていた菜々にとって、隼人の存在は、まるで一服の清涼剤のようだった。

「杉本さん…はい、なんでしょう?」

菜々は、わずかに視線を伏せて答えた。

隼人の真っ直ぐな視線が、どこか居心地が悪かった。

彼は、悠馬とは違う意味で、菜々の心の奥底を見透かしているかのように感じられたのだ。

「先日、お渡しした資料のデザイン案なんですが、いくつか気になった点がありまして。少し、打ち合わせできませんか?」

隼人は、手に持っていた資料を菜々に差し出した。

それは、あくまで仕事上の話だったが、その言葉の裏に、菜々を気遣う隼人の優しさが滲み出ているのを、菜々は感じ取った。

「もちろんです。ありがとうございます」

菜々は、資料を受け取りながら、隼人の指先に触れた。

一瞬、隼人の指がピクリと反応したのが分かった。

菜々の頬が、微かに赤らむ。

悠馬の強引な触れ合いとは違う、隼人の控えめな優しさが、菜々の心を揺さぶった。

二人は、会社のカフェスペースへと移動した。

窓から差し込む午後の光が、二人の横顔を照らす。

隼人は、熱心に資料の内容を説明し、菜々もまた、真剣な表情で耳を傾けていた。

だが、その会話の端々に、仕事とは関係のない個人的な感情が、微かに顔を覗かせていた。

「坂井さん、最近、少し疲れていませんか?目の下にクマができていますよ」

隼人の言葉に、菜々はハッと顔を上げた。

彼は、自分の変化に気づいていたのだ。

悠馬は、菜々の身体を支配することには熱心だったが、彼女の心や身体の疲労には、ほとんど関心を払わなかった。

「…大丈夫です。ありがとうございます、杉本さん」

菜々の声は、小さく震えていた。

隼人の優しさが、菜々の心の奥に閉じ込めていた感情の蓋を、ゆっくりと開いていく。

「何か、悩みがあるなら、いつでも聞きますよ。僕で力になれることがあれば、何でも言ってください」

隼人の瞳は、菜々を真っ直ぐに見つめていた。

その視線には、菜々への深い思いやりと、そして秘めたる感情が込められているのを、菜々は感じ取った。

菜々の胸の奥に、温かいものが込み上げてくる。

それは、悠馬から感じることのできない、純粋な優しさだった。

その夜、菜々は自宅のソファで、一人考え込んでいた。

隼人の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

彼の優しさが、菜々の心をそっと包み込んでくれるかのようだった。

しかし、同時に、悠馬への恐怖と、彼から離れることへの不安が、菜々の心を縛り付けていた。

「私は…どうしたいんだろう…」

菜々は、自分の腕を抱きしめた。

その身体には、未だ悠馬の触れた痕跡が残っているかのようだった。

彼の指が肌を滑る感覚、唇が吸い付く熱。

全てが、菜々を彼の元に引き留める鎖のようだった。

一方、青山莉子は、その日の夜も悠馬の自宅にいた。

ワイングラスを片手に、悠馬の隣で笑っている。

しかし、その笑顔の裏には、常に不安が付きまとっていた。

「悠馬さん、明日は、どこか行かないんですか?」

莉子は、悠馬の腕にそっと触れた。

彼の肌の温かさが、莉子の心を僅かに満たした。

「ああ、明日は少し立て込んでいる。デザインの締め切りが近いんだ」

悠馬は、莉子の質問にそっけなく答えた。

彼の視線は、莉子ではなく、リビングの壁に飾られた自分のデザイン画に向けられていた。

莉子の心に、冷たい風が吹く。

彼にとって、自分は単なる遊び相手に過ぎないのか。

菜々の存在が、莉子の心に再び影を落とす。

「…そう、ですか。じゃあ、私は、もう少しゆっくりしてもいいですか?」

莉子は、試すように悠馬に尋ねた。彼の反応を確かめたかったのだ。

「ああ、構わないぞ。好きなだけいろ」

悠馬は、興味なさそうに答えた。

莉子は、胸の奥で失望を感じた。

彼の言葉は、彼女がここにいることへの無関心を如実に示していた。

莉子の指が、無意識のうちに自分の太ももを撫でた。

悠馬に求められることでしか、自分の存在意義を見出せない莉子の悲しみが、そこに滲んでいた。

同じ頃、杉本隼人は、ジムで汗を流していた。

サンドバッグを叩く音だけが、静かなジムに響く。

彼の脳裏には、菜々の疲れ切った顔が焼き付いていた。

「っ…!」

隼人は、渾身の力でサンドバッグを叩きつけた。

ミットが鈍い音を立てて揺れる。

この無力感を、どうすればいいのか。菜々を救いたい。

その思いが、隼人の身体を突き動かしていた。

彼の心の中で、悠馬への憎悪が、さらに深い根を張っていく。

筋肉が軋むほどの痛みも、彼にとっては心地よかった。

この痛みが、自分を突き動かす原動力となる。

悠馬の事務所で、菜々が一人、残業していた。

カチカチと時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえる。

ふと、スマホが光った。隼人からのメッセージだった。

『もしよかったら、今度、食事でもどうですか?』

簡潔なメッセージだったが、菜々の心に温かい光が灯った。

彼女の指が、スマホの画面に触れる。

返事を打つ指は、微かに震えていた。

それは、新しい希望の兆しなのか、それとも、さらなる混乱の始まりなのか。菜々には、まだ分からなかった。

だが、そのメッセージが、菜々の心を少しだけ、悠馬の支配から解き放ったのは確かだった。

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