亀裂
菜々の心に、悠馬と莉子の存在が鉛のように重くのしかかっていた。
オフィスでの二人の甘やかな空気は、まるで菜々の呼吸を止めるかのように感じられた。
キーボードを叩く指は、いつしか無意識に震え、ディスプレイに映る自分のデザインも、色を失って見える。
悠馬の才能に惹かれ、彼と共に最高のクリエイティブを生み出したいという情熱は、日々の軋轢の中で少しずつ削り取られていく。
「菜々、このフォント、もう少し細い方がいいんじゃないか?」
悠馬の容赦ない声が飛んでくる。
彼の言葉は、常に的確で、菜々もそれを理解していた。
しかし、その言葉の裏に隠された傲慢さや、自分への支配欲を感じ取ると、菜々の心はさらに沈んでいく。
「…そう、だね。変えてみる」
菜々は俯き加減に答え、マウスを動かす。
その指先は、僅かに震えていた。
悠馬はそんな菜々の様子に気づく様子もなく、莉子と談笑を続けている。
莉子の笑い声が、オフィスに軽やかに響き渡る。
その無邪気な響きは、菜々の耳には酷く耳障りだった。
彼女の視界の端で、莉子が悠馬の腕にそっと触れるのが見えた。
その仕草一つ一つが、菜々の心を深く抉っていく。
夜が訪れ、オフィスに人の気配がまばらになる頃、悠馬が菜々のデスクにやってきた。
いつものことだった。二人きりになると、悠馬の態度は一変する。
「菜々。今日の作業、遅くなるぞ」
その声には、有無を言わせない響きがあった。
菜々は視線を上げ、悠馬の顔を見た。
彼の瞳の奥には、獲物を見定めた獣のようなギラついた光が宿っている。
菜々の心臓がドクンと鳴った。
「…分かった」
菜々は抵抗する気力もなく、力なく頷いた。
彼女の脳裏には、昨夜の情景が鮮明に蘇る。
悠馬の荒々しい呼吸、熱を帯びた肌、そして耳元で囁かれる支配的な言葉。
全てが、菜々の身体に染み付いて離れない。
「いい子だ、菜々」
悠馬は満足げに微笑み、菜々の髪をそっと撫でた。
その指先が、首筋へと滑り落ち、彼女の肌を這う。
ゾクリと背筋に冷たいものが走るが、菜々は動けない。
その冷たさの中に、甘く痺れるような感覚が混ざり合っていることを、菜々は知っていた。
深夜のオフィスは、静寂に包まれていた。
PCの冷却ファンの音だけが、虚しく響く。
菜々はPCの前に座り、デザインの修正作業を続けていたが、その手はほとんど動いていなかった。
背後から、悠馬の視線を感じる。それは、肌を焼くような熱を帯びていた。
「…疲れたか、菜々?」
悠馬の声が、すぐ後ろから聞こえた。
同時に、背後から菜々の身体を包み込むように、悠馬の腕が伸びてくる。
彼の指が、菜々のデコルテを優しくなでる。
そして、ゆっくりとシャツの中に滑り込み、ブラジャーのカップの縁を辿る。
「や、めて…」
菜々の声は、震えていた。
しかし、その抵抗は、ほとんど意味をなさない。
悠馬の指先は、躊躇なくブラジャーのフックに触れ、カチリと音を立てて外した。
菜々の身体から、わずかな締め付けが消え、解放感が広がる。
同時に、裸にされたような羞恥心が込み上げてきた。
「どうした、菜々。そんなに強がって…俺に求められているのが、嫌か?」
悠馬の低い声が、菜々の耳元で囁かれた。
彼の指が、菜々の胸を優しく揉みしだく。
弾力のある柔らかな感触が、悠馬の指に伝わる。
菜々の身体は、電気に打たれたようにピクリと跳ねた。
胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
「っ…んぅ」
菜々の口から、小さな喘ぎ声が漏れた。
それは、悠馬の支配的な愛撫に対する、本能的な反応だった。
悠馬は、菜々の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
彼女の香りが、彼の理性をさらに揺さぶる。
「菜々…お前は、本当にいい身体をしている」
悠馬の声は、どこまでも甘く、そして貪欲だった。
彼の唇が、菜々の首筋に吸い付く。
チュッ、と湿った音が静かなオフィスに響いた。
菜々の全身に、ゾワゾワと鳥肌が走る。
彼女の身体は、悠馬の触れる場所全てに反応し、熱を帯びていく…
その頃、杉本隼人は、仕事帰りに一人、バーのカウンターに座っていた。
琥珀色のウイスキーが、グラスの中で揺れる。
彼の脳裏には、菜々の疲れた横顔が焼き付いていた。
昼間、悠馬と莉子が楽しそうに話している姿を見た時の、菜々の沈んだ表情。
隼人の胸に、黒い感情が渦巻く。
「くそっ…!」
隼人は、思わずグラスを強く握り締めた。
カラン、と氷が音を立てる。
菜々を悠馬から救い出したい。その思いが、彼の心を支配していた。
だが、自分に何ができるのか。今の自分では、悠馬の牙城を崩すことはできない。その無力感が、隼人を苛んでいた。
一方で、青山莉子もまた、別の夜を過ごしていた。
彼女は自宅のソファに座り、スマートフォンを眺めている。
画面には、悠馬とのツーショット写真。
莉子の心は、常に不安と期待の間で揺れ動いていた。
悠馬が自分を本当に愛しているのか。
それとも、単なる気まぐれに過ぎないのか。
菜々の存在が、常に莉子の心を蝕んでいた。
「…私だけじゃ、ダメなのかな…」
莉子はそっと呟いた。その声は、虚しく部屋に響き渡る。
彼女は悠馬の才能にも、その危険な魅力にも惹かれていた。
しかし、彼がいつ自分を捨てるか分からないという恐怖が、常に莉子の心に影を落としていた。
莉子は、悠馬のどんな裏の顔も受け入れる覚悟でいた。
彼に捨てられることだけが、彼女にとっての最大の恐怖だったのだ。
悠馬のオフィスの鍵が、カチリと音を立てて開く。
菜々が、憔悴しきった顔で姿を現した。
その瞳は潤み、頬には微かな赤みが残っている。
隼人は、その菜々の姿を見て、胸が締め付けられるような思いがした。
「坂井さん、お疲れ様です」
隼人は、いつものように声をかけた。
菜々は、ハッと顔を上げ、隼人を見た。
その瞳に、一瞬だけ安堵の色が宿ったように見えた。

「杉本さん…お疲れ様です」
菜々の声は、いつもよりも掠れていた。
その細い身体が、今にも倒れてしまいそうに見える。
隼人は、何か声をかけたい衝動に駆られたが、言葉が出てこなかった。
自分の無力さに、再び苛まれる。
悠馬は、そんな菜々の様子をまるで気にも留めないかのように、颯爽とオフィスから出て行った。
彼の顔には、微かな満足感が浮かんでいる。
その横顔を見て、隼人の心に、どす黒い感情が再び沸き上がった。
悠馬への憎悪が、さらに強固なものになっていく。
それぞれの思惑が、複雑に絡み合い、それぞれの関係に亀裂が入り始める。
この破滅的な関係が、さらに加速していく予感を、誰もが感じ始めていた。