【軌跡】

汚れなき初恋は、背徳に染まる ~大学生編 1-2~

田中りこさん。

隣に住む、既婚の女性。

分かっている。頭では理解しているんだ。
彼女には「あなた」と呼ぶ夫がいる。

それなのに、俺の心は止めようもなく
彼女に囚われてしまった。

あの、玄関先で一瞬だけ嗅いだ柑橘系の甘く爽やかな香り。

あの笑顔。

あの…すべてが、俺の理性という名の壁を
いとも簡単に崩壊させてしまった。

大学とアルバイトの日々にも、どこかりこさんの影がつきまとうようになった。

講義中、ふと窓の外を見れば、
もしかして彼女が家の周りを歩いているんじゃないか?
なんて馬鹿げたことを考えてしまう。

バーでのアルバイト中、賑やかな喧騒の中で、もし彼女が客として現れたら?

なんて妄想をしては、熱くなる頬を洗い場の水道の冷たさで鎮める。

隣に住んでいる。
その事実が、俺の心をさらに掻き乱した。

同じ建物の、壁一枚隔てた隣に、あの人がいる。

そのことを考えると、胸が締め付けられるような、甘く苦しい痛みが走る。

部屋にいる時、隣から物音がするたびに、
無意識に耳を澄ませた。

どんな小さな音でも、彼女の気配を感じ取りたかった。

掃除機をかける音、食器の触れ合う音、テレビの笑い声…

それらが、まるで彼女の生活の一部を覗き見ているようで、背徳感と同時に抗いがたい興奮を覚えた。

偶然を装って、彼女に会えないかと考えるようになった。

ゴミ出しの時間、洗濯物を干す時間、買い物に出かける時間。

彼女の生活サイクルを知ろうと、密かに観察した。
そして、何度か、本当に偶然を装って顔を合わせる機会を作った。

「あ…こんにちは」

「あら、修太君。こんにちは」

あの笑顔が、俺に向けられるたび、全身が痺れるような感覚に襲われる。

挨拶を交わすだけの、ほんの一瞬。

それでも、彼女の声を聞き、あの顔を見るだけで、俺の心は満たされていくようだった。

そして、同時に、どうしようもない焦燥感が募る。

ただの隣人。ただの学生。

その立ち位置から、どうやって彼女という存在に深く踏み込んでいけばいいのか、皆目見当もつかなかった。

「よし・・・。やるか!」

その日の午後、
溜まりに溜まった洗濯物を片付けた勢いで、俺は万年散らかった部屋の掃除に取り掛かっていた。

床には脱ぎっぱなしの服、机の上には読みかけの漫画と空のペットボトル、

そして……。

あ、やっべ。

テーブルのど真ん中に、昨日の夜食べたカップラーメンの残骸が鎮座してる。

やばい、これはさすがにマズイだろ…。

慌てて片付けようとした、その時だった。

ピンポーン…

インターホンが鳴った。

このタイミングかよ!最悪だ。

こんな部屋、絶対に見られたくない。
特に、りこさんには…。

一瞬、居留守を使おうかと思ったけど、
もしかしたら、りこさんかも…という期待が、俺の足を玄関へ向かわせた。

ドアスコープを覗くと…

やっぱり!そこに立っていたのは、
りこさんだった。

心臓がドクン!と跳ねる。

「は、はい!」

ドアを開けると、りこさんがニコニコしながら立っていた。

手には、タッパーとラップにくるまれた何かがぶら下がっている。

「こんにちは、修太君。あのね、筑前煮とおにぎり、作りすぎちゃったから、よかったらと思って…」  

「え!?いいんですか?あ、ありがとうございます…!」

タッパーとずしっと重いおにぎりを受け取る。

まだほんのり温かい。
りこさんの手料理…。
それだけで胸がいっぱいになった。

「あの…ちょっと、上がってもいい?」  

りこさんが上目遣いで尋ねる。

え!? う、嘘だろ!?
りこさんがこの部屋に!?

部屋の惨状が頭をよぎって、一気に血の気が引いた。

やばい、やばすぎる・・・。

でも、ここで断るなんて選択肢はない。
りこさんを部屋に入れる、
またとないチャンスだ。

「あ、はい!ど、どうぞ!散らかっててすみません!」

声がひっくり返りそうになるのを必死で抑えながら、りこさんを部屋に招き入れた。

りこさんが部屋に入った瞬間、
ふわっと柑橘系の、あの香りが部屋中に広がった気がした。

それだけで、さっきまでの焦りが少し和らぐ。

りこさんが部屋に入ってすぐ、
テーブルの上のカップラーメンの残骸に
目が留まった。

「修太君…。もしかして、これ…?」  

あぁ、やっぱり見られた。
顔から火が出そうだ。

「あ、いや、これはその…昨日…」

しどろもどろになりながら言い訳しようとする俺に、りこさんは優しく微笑んだ。

「もう、ちゃんとご飯食べなきゃダメだよ。体壊しちゃうでしょ?」  

その優しい声色に、俺の心臓はギュッとなった。

俺の体のことを気遣ってくれてる…。
りこさんの優しさが、全身に染みわたるようだ。

恥ずかしくて、顔が熱くなる。
どうしよう、完全にデレデレしてるのがバレバレだ。

もじもじと落ち着きなく視線をさまよわせる。

「ね、奥の部屋行こっか。そっちの方が広いし」

りこさんがそう言って、俺が寝室兼くつろぎスペースとして使っている奥の部屋へ促した。
俺はただ頷くことしかできない。

奥の部屋のソファに二人で腰かける。
りこさんが持ってきてくれた筑前煮と
おにぎりをテーブルに置く。

「どうぞ、遠慮しないで」

「いただきます…!」

ラップを外し、おにぎりを一つ手に取った。まだ温かいおにぎりを大きく口に頬張る。

うん!美味しい!優しくてホッとする味だ。まさに「おふくろの味」ってやつだ。

もぐもぐとおにぎりを食べる俺の様子を、
りこさんがじっと見ていることに気づいた。
恥ずかしくて、さらに顔が熱くなる。

「どう?口に合うかな?」

「はい!めちゃくちゃ美味しいです!ありがとうございます!」

そう言って、もう一つおにぎりを手に取ろうとしたら、りこさんがふっと微笑んだ。

「ふふ、よかった。美味しそうに食べるね、修太君」  

その笑顔は、本当に優しくて、俺は完全にりこさんの魅力にノックアウトされていた。

りこさんの目には、今の俺が子供みたいに映っているんだろうか?

美味しいものをもらってはしゃぐ、手のかかる弟みたいに。
そんな風に思われているのかもしれない、と思うと、少し切なくなった。

でも、同時に、そんな風に思われていてもいいから、りこさんの隣にいたい、もっとりこさんのことを知りたい、という気持ちが強くなった。

りこさんの優しい笑顔を見ていると、この時間がずっと続けばいいのに、と心から思った。

「ったく、ツイてねーな」

大学からの帰り道、突然の夕立に遭い、傘を持っていなかった俺は、アパートの前に着いた頃にはずぶ濡れになっていた。

大家さんの家で雨宿りさせてもらおうか、いや、びしょ濡れのままりこさんに会ったら…そんなことを考えていると、不意にアパートの入り口のドアが開いた。

そこに立っていたのは、りこさんだった。

「あら、修太君。大変だったわね。風邪ひいちゃうわよ」

彼女は手にてタオルを持っていた。
俺を見て、心配そうに眉をひそめている。その優しい声に、俺の心臓は高鳴った。

「あ…はい。傘持ってなくて…」

「もう、気をつけないと。これ、使って」

差し出されたタオルは、洗いたての、ほんのりと柔軟剤の香りがするタオルだった。

彼女の匂い…ではない。

でも、彼女の生活の一部であるそのタオルから伝わる温かさと香りに、俺は胸がいっぱいになった。

「ありがとうございます…」

「早く部屋に入って、温かくしてね」

そう言って、彼女は優しく微笑んだ。

俺はタオルを受け取り、頭を拭きながら、彼女の横を通り過ぎようとした。

その時、彼女の服の袖が、俺の濡れたシャツに触れた。

ほんの一瞬の接触。
だが、その小さな触れ合いに、俺の体は電流が走ったかのように硬直した。

彼女の、柔らかそうな肌の感触が、濡れたシャツ越しに伝わってくるような錯覚。

鼻腔をくすぐる、あの甘く爽やかな香りが、すぐ近くで漂っている。

理性が警鐘を鳴らす。

この人は、隣人の奥さんだ。
それ以上を望んではいけない。
だが、体は正直だった。

熱を帯びていく体の変化を、必死に隠そうとした。

「…っ、すみません…濡れてしまって…」

「ううん、大丈夫。早くお風呂に入りなさいね」

彼女は気にする様子もなく、
俺を気遣ってくれた。
その優しさが、俺にはたまらなく甘く、
そして罪深く感じられた。

部屋に戻り、タオルを顔に押し当てて、深く息を吸い込んだ。

彼女の家の香りがする。
まるで、彼女自身を吸い込んでいるかのような錯覚に陥り、俺は一人、熱にうかされたようにその香りを貪った。

この日を境に、俺の中で何かが決壊した気がした。

彼女への想いは、もはや隣人への淡い憧れなどでは済まされないレベルにまで達していた。

(どうすれば、もっと彼女に近づける・・・?どうすれば、彼女の心の中に、俺という存在を刻み込める・・・?)

狂おしいほどの欲望が、俺の理性を蝕んでいく・・・。

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