~二つの相反する感情~
数日後、恵子は裕美とコンタクトを取り、二人きりで話し合いの場を設けた。
場所は、都心のシティーホテルの一室。
静かで、人目の少ない、密談には最適な場所だった。
ホテルの一室は、厚手のカーテンが光を遮り、外界の喧騒から隔絶されていた。
窓の外は、ビル群のシルエットが薄暮に溶け込み、どこか現実離れした雰囲気だった。
恵子と裕美は、アンティーク調の小さなテーブルを挟んで向かい合っていた。
テーブルの上には、温かい紅茶が湯気を立てている。
恵子は、少し緊張した面持ちで、切り出した。
その表情には、友として、そして女としての葛藤が入り混じっていた。
「裕美さん、今日はわざわざお時間をいただき、ありがとうございます」
裕美は静かに頷き、恵子の言葉を待った。
その表情は、感情を読み取らせないほどに無表情だったが、その瞳の奥には、微かな期待と、そして諦めが混在しているようにも見えた。
彼女の指先が、カップの縁をゆっくりと撫でる。
「あの……実は、翔太さんのことで、裕美さんにお話ししたいことがありまして」
恵子は、翔太が浩二から受けた連絡の内容、そして翔太がまだ浩二に抱いている感情を、包み隠さず裕美に話した。
恵子の言葉は、真摯で、そして嘘偽りのないものだった。
裕美は、恵子の言葉を一つ一つ噛みしめるように聞いていた。
その表情は、次第に険しくなっていく。
彼女の顔には、怒り、悲しみ、そしてかつて自分が経験した屈辱が、まるで影のように浮かび上がっていった。
彼女の唇が、キュッと引き結ばれた。
「そして……私自身も、社長に無理やり関係を迫られたことがありました」
恵子の告白に、裕美の顔色がさっと変わった。彼女の瞳には、怒りと嫌悪感が混じり合っていた。
それは、彼女自身が抱えてきた、浩二への深い憎しみが、一気に噴き出したかのようだった。
彼女の拳が、テーブルの下で固く握り締められているのが見て取れた。
その手は、震えている。
「……社長が、そんなことを」
裕美の声は、冷たく、そして震えていた。
その震えは、怒りからくるものであり、また、過去の屈辱が蘇ったことによるものだった。
彼女は深呼吸を一つし、静かに恵子に問いかけた。
その目は、まるで獲物を狙う鷹のように、鋭く恵子を射抜いた。
「恵子さん……お話し、ありがとうございました。社長が、ここまで落ちぶれたのは自業自得です。むしろ、よくここまで持ち堪えた、というべきでしょうね」
裕美の声には、冷たい響きがあった。
その言葉からは、長年浩二の下で働いてきた者の、深い諦めと、そして怒りが感じられた。
「実は、私も会社の経営状況については、以前から把握していました。社長は、見栄っ張りなだけで、経営者としての資質は全くありません。以前から、いつかこうなるだろうと予感はしていました。この状況では、銀行からの追加融資も、焼け石に水でしょう。遅かれ早かれ、会社は立ち行かなくなる……そう確信しています」
裕美は、淡々と会社の現状を語った。
その声には、感情がほとんどなく、まるで他人の話をしているかのようだった。
しかし、その瞳の奥には、長年抱えてきた苦悩と、そして従業員への責任感が垣間見えた。
「そこで、私から恵子さんにご提案があります。もし、社長の会社が倒産するようなことになれば、その会社を丸ごと、翔太さんの会社の傘下に加えていただけないでしょうか?」
恵子は、裕美の言葉に息を呑んだ。
予想もしなかった提案に、彼女の表情は驚きに満ちていた。
「その際、社長には社長職を退いていただき、会社から完全に去っていただきます。彼には、もうこの業界には関わってほしくない。そして、会社の従業員は、全て翔太さんの会社で引き取っていただきたい。彼らには罪はありませんから」
裕美の言葉には、社員への深い配慮と、浩二への明確な決別が込められていた。
その瞳には、かつて見たことのない、強い意志の光が宿っていた。
恵子は、その真剣な眼差しを受け止め、ゆっくりと口を開いた。
「……裕美さん、その提案は、翔太さんとよく相談しなければなりません。また、もし可能であれば、裕美さんには、翔太さんの会社で働いていただきたいと思っています。役職は、秘書兼女性下着デザイナーとして」
裕美の瞳が、僅かに揺れた。
それは、驚きと、そして密かな喜びが入り混じった表情だった。
彼女の心の中で、新たな希望の光が灯った瞬間だった。
彼女の唇に、微かな笑みが浮かんだ。
「……それは、ありがたいお話です。ですが、私からも一つ、条件を提示させてください」
裕美は、真っ直ぐに恵子の目を見つめ、告げた。
その瞳には、彼女自身の深い欲望が、隠しようもなく宿っていた。
それは、彼女の魂の奥底から湧き上がる、切実な願いだった。
「私が翔太さんの秘書になったら、翔太さんと肉体関係を継続させてほしいんです」
恵子の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
彼女の瞳が大きく見開かれ、信じられないものを見るかのように裕美を見つめた。
その表情は、まさに凍り付いたかのようだった。
彼女の唇が、震えながら開いた。
「な……何を言ってるんですか、裕美さん! それだけは、飲めません!」
恵子の声は、戸惑いと怒りが入り混じっていた。
彼女は、思わずテーブルを叩きそうになるのを、寸前で抑えた。
その声は、心の底から湧き上がる拒絶の感情を、そのまま表していた。
「あなたが、羨ましい……」
裕美は、恵子の反応に動じることなく、静かにそう呟いた。
その声は、まるで深淵から響く声のように、恵子の心の奥底に響いた。
拍子抜けした恵子は、思わず
「どうして、そんなことを……」
と問いかけた。その問いには、驚きと、そしてわずかな恐怖が混じっていた。
裕美は、ゆっくりと話し始めた。彼女の言葉は、抑えきれない感情の吐露だった。
「秘書交換の時、私は翔太さんの仕事ぶりを間近で見ていました。彼の仕事に対する真摯な姿勢、社員への気配り、そして何よりも、彼の持つ独特の魅力に惹かれたんです。社長とは全く違う、彼の優しさと強さに、私は心を奪われました」
彼女の声は、真剣だった。
その言葉には、偽りのない、純粋な感情が込められていた。
恵子は、黙って裕美の言葉に耳を傾けた。
彼女の心の奥底に、裕美の言葉が、ゆっくりと染み込んでいくのを感じた。
「そして……翔太さんと肉体関係を持った時、私は、社長とは違う、幸福感を感じたんです。それは、ただ肉体的な快楽だけでなく、心の奥底から満たされるような、深い繋がりを感じる幸福感でした。あの瞬間、私は、翔太さんが、私の求めていた唯一の存在だと確信しました。あなたには、わかるはずです。この気持ちが」
裕美の告白に、恵子の胸はざわめいた。
嫉妬、というよりも、理解できない感情が、彼女の心に渦巻いていた。
それは、同じ男を好きになった者同士の、共感にも似た、しかし決して相容れない、複雑な感情だった。
裕美の言葉は、恵子の心に、新たな葛藤の種を蒔いた。
「恵子さん……私は、本気です。翔太さんの隣で、仕事をしてみたい。そして、彼を愛したい。どんな形であれ、彼の傍にいたいんです」
裕美の瞳は、真剣そのものだった。
その瞳の奥には、彼女の人生を賭けたような、切実な願いが宿っていた。
恵子は、裕美の思いがただの気まぐれではなく、真剣な感情であることを理解した。
複雑な思いが胸に去来したが、裕美の切実な願いを無視することはできなかった。
彼女の心の声が、恵子の心に深く響いた。
「……分かりました。翔太さんと相談します」
恵子はそう言って、ホテルを後にした。
彼女の足取りは重く、心の中は、まるで嵐の後の海のように、大きく波立っていた。
恵子は翔太の自宅へと向かっていた。
タクシーの窓から流れる夜景を眺めながら、恵子の心は千々に乱れていた。
裕美の真剣な告白。そして、あの衝撃的な条件。
彼女の心は、激しい感情の渦に巻き込まれていた。
翔太の自宅に着くと、彼はリビングで恵子の帰りを待っていた。
室内の灯りが、彼女の帰りを待っていたことを示していた。
恵子の顔を見るなり、翔太は心配そうに声をかけた。
彼の顔には、恵子の安否を気遣う、優しい表情が浮かんでいた。
「恵子、どうだった?」

恵子は、裕美と話したこと、そして裕美が出した条件の全てを、翔太に打ち明けた。
翔太は、恵子の話を聞きながら、時折、驚いたような表情を見せた。
特に、肉体関係の継続という条件には、戸惑いを隠せないようだった。
彼の眉間に、深い皺が刻まれた。
「恵子……君はどうしたいんだ? 君の考えを聞かせてほしい」
恵子の問いかけに、翔太は正直な気持ちを打ち明けた。
彼女の言葉は、絞り出すように、しかし真剣に響いた。
「正直……私の気持ちは、困惑しています。翔太さんには、これまで通り、私だけを愛してほしい。でも……同じ男を好きになった者同士、裕美さんの女心も理解できます。彼女の真剣な気持ちを、無視することもできない……。彼女の苦しみも、私には痛いほどわかるんです。私と同じように、彼女もまた、社長に利用され、傷つけられてきたんです」
恵子の言葉に、翔太は黙って耳を傾けた。
複雑な感情が入り混じった恵子の心境を、彼は理解しようと努めていた。
彼の表情は、真剣そのものだった。
彼は、恵子の心の痛みを、まるで自分の痛みのように感じていた。
結局、その日は結論が出ないまま、恵子は翔太の家に泊まることになった。
キングサイズのベットに二人で横たわる。
シーツの白い色が、二人の心情とは対照的だった。
翔太の腕の中に抱かれながら、恵子は目を閉じた。
彼の温もりを感じながら、裕美の言葉が脳裏をよぎる。
彼女の心は、二つの相反する感情の間で、激しく揺れ動いていた。