体験談

月の満ちる温泉で

張り詰めた糸が、今にも切れそうだった。東京での日常は、コンクリートジャングルを彷彿とさせる。

朝から晩まで、数字と納期に追われる日々。30代後半に差し掛かり、主任という肩書きは重みを増すばかりで、比例するように心は擦り減っていく。

スマートフォンから流れ出るニュースは心をさらに翳らせ、SNSのキラキラした投稿は、自分の灰色の日々を嘲笑っているかのようだった。

特に最近フォローした、ある女性の投稿を見るたびに、形容しがたい焦燥感と微かな憧れがないまぜになった感情が胸に広がる。

フリーランスのデザイナーだとプロフィールにはあった。彼女の投稿する写真はいつも洗練されていて、どこか遠い世界の光景のように見えた。

「このままでは、本当に壊れてしまう・・・」

そう思った時、衝動的に有給休暇を取った。

目的地は、ただ漠然と「遠くへ行きたい」という思いから選んだ、山間のひなびた温泉旅館だ。

都会の喧騒から離れ、静かな湯に浸かり、美味いものを食べ、そして何も考えずに眠りたい。ただそれだけが願いだった。

新幹線とローカル線を乗り継ぎ、さらにバスに揺られること数時間。

ようやくたどり着いた温泉街は、想像していたよりもずっと鄙びていた。

古い木造の建物が軒を連ね、硫黄の匂いがかすかに漂っている。

チェックインにはまだ少し時間があったので、浴衣に着替える前に、旅館の周辺を散策することにした。

細い路地を歩いていると、前方にすらりとした女性の後ろ姿が見えた。

長い黒髪が風になびき、その佇まいには見覚えがあった。

いや、見覚えがある、というよりは画面越しに何度も見ている姿だった。

まさか、こんな場所で。心臓がドクリと跳ねた。

吸い寄せられるように距離を詰め、声をかけようとして、躊躇した。

SNSで繋がっているとはいえ、直接会ったことは一度もない。

それに、こんなプライベートな空間で声をかけるのは迷惑かもしれない。

そう思って足を止めかけた、その時。

彼女が、ふとこちらを振り返った。

「あの…隼人さん、ですよね?」

信じられないという表情を浮かべた彼女の顔を見て、私の思考は完全に停止した。

画面越しで見ていた通りの、いや、それ以上に魅力的な女性が目の前に立っていた。

大きな瞳が、驚きとともに私を映している。

「あ…はい。あの、もしかして悠希さん…?」

声が上ずった。まさか、あのSNSで密かに憧れていた彼女が、こんな偶然の形で目の前に現れるなんて夢にも思わなかった。

「やっぱり!隼人さんだ!びっくりしました、こんなところで会うなんて!」

彼女…悠希さんは、ふわりと微笑んだ。その笑顔はSNSのアイコン写真よりもずっと柔らかく、親しみやすかった。

「僕の方こそびっくりです。まさか、悠希さんもここに…」

「はい、仕事で近くまで来ていて、少し息抜きに。隼人さんもお仕事の旅行ですか?」

「いえ、僕はただ…ちょっと疲れてしまって。非日常を求めて来ました」

「そうなんですね…お疲れ様です」

悠希さんの優しい言葉が、乾いた心に染み渡るようだった。

しばしの立ち話の後、お互いに今夜この旅館に宿泊することを話し、「夕食時にでも改めて話しましょう」ということになった。

旅館への道を並んで歩きながら、胸の内の高鳴りが止まらなかった。

疲れた心を癒すために来たはずが、思わぬ出会いが予想もしなかった形で、私の心を揺さぶっていた。

非日常への扉を開けた先に、彼女がいた。これは、偶然という名の奇跡なのだろうか。

夕食までの時間、部屋で一人でいるとそわそわして落ち着かない。

部屋の窓から見える山の緑も、鳥のさえずりも、いつもなら心を落ち着かせてくれるはずなのに、今はただ、早く彼女に会いたいという気持ちでいっぱいだった。

SNSで一方的に憧れていた存在が、今夜、同じ屋根の下にいる。そして、夕食を共にし話をする約束をした。まるで、夢を見ているかのようだった。

浴衣に着替え、指定された食事処へ向かう足取りはどこか浮ついていた。

部屋を出る前、鏡で何度も身なりを確認してしまったのは一体いつぶりだろうか。

仕事一辺倒だった日常では、外見など二の次だったというのに。

これも、非日常という魔法なのだろうか。いや、目の前の悠希さんという存在が、私の内に秘められた何かを揺り動かしているに違いなかった。

食事処の入り口で名前を告げると、個室へと案内された。

障子を開けると、すでに彼女はそこにいた。

昼間とは違う、紺色の浴衣姿。

それがまた、彼女の白い肌によく映えていた。

湯上がりのせいか、頬がほんのり桜色に染まっているように見える。心臓が再び高鳴るのを感じた。

「お待たせしてすみません」

「いえ、私も今来たところです。どうぞ」

悠希さんが向かいの席を勧めてくれた。畳の上に正座をするのが久しぶりで、少しぎこちない動きになってしまったが、

彼女は気にしている様子もなく、ただ優しく微笑んでいた。

仲居さんが運んできた料理は、地のものを中心とした懐石料理だった。

色とりどりの美しい盛り付けは、見ているだけで心が華やぐ。食前酒として出された地酒のグラスを手に取り、私たちは控えめに乾杯をした。

「改めて…まさか、こんな場所で隼人さんにお会いできるなんて、本当に驚きました」

彼女から口火を切った。

「僕もです。悠希さんのSNSを拝見していて、素敵な方だなと密かに思ってはいたんですけど…まさか、現実にお会いできるとは夢にも思っていなくて」

「え…/// そんな風に思ってくださってたんですか?嬉しいです」

彼女の頬の色が、少しだけ濃くなったように見えた。その控えめな反応に、私の心は温かくなる。

「はい。悠希さんの撮る写真、いつも素敵で…特に、光の捉え方が綺麗だなと思っていました」

「ありがとうございます。隼人さんはいつも丁寧なコメントを下さるから、どんな方なのかなって私も気になっていました」

SNSでのやり取りで感じていたお互いへの興味と、敬意。それが今、目の前で鮮やかな色を帯びていくのを感じた。

料理を口に運びながら、私たちは他愛もない話をした。仕事のこと、趣味のこと、好きなもの、嫌いなもの。
SNSの文字だけでは分からなかった、彼女の声のトーン、笑い方、考え方。その全てが新鮮で、私の心を惹きつけた。
彼女の話を聞いていると、凝り固まっていた心がゆっくりと解けていくようだった。
彼女もまた、私の話に真剣に耳を傾けてくれた。
特に、仕事の苦労を話した時には、「大変でしたね」と、まるで自分のことのように労ってくれた。
その優しい眼差しに、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

グラスが空になるたび、仲居さんが頃合いを見計らって新しい飲み物を注いでくれる。
地酒は控えめに、お互いのペースに合わせてビールやソフトドリンクも交えながら進めた。
アルコールは、私たちの間の見えない壁を少しずつ取り払っていくようだった。

「隼人さんが、非日常を求めてここに来られた気持ち、なんだか分かる気がします」

彼女が、窓の外に広がる夜の山並みに目を向けながら言った。

「最近、どうにも息が詰まるような毎日で…」

「私もです。フリーランスって自由なイメージがあるかもしれないですけど、結局は自分との戦いというか。締め切りに追われたり、取引相手との人間関係に悩んだり…」

共感する彼女の言葉に、心が軽くなるのを感じた。普段、誰にも話せなかった仕事の悩みを、彼女には自然と打ち明けることができた。
そして、彼女もまた、私に自身の内面をさらけ出してくれた。

「だから、こういう場所に来ると本当にほっとするんです。何もかも忘れて、自分に戻れる気がして」

「分かります。温泉に浸かって、美味しいものを食べて、静かな時間を過ごす…それだけで、明日からまた頑張ろうって思えますよね」

二人で笑い合った。その瞬間、昼間のぎこちなさは完全に消え失せ、私たちはまるで長い付き合いの友人のように自然に会話を交わしていた。

食事を終え、部屋に戻る時間になった。帰り際、彼女が少し迷ったような表情で口を開いた。

「あの…もしよかったら、この後、少しだけお話しませんか?部屋じゃなくても、ラウンジとかで…」

その言葉に、私の心臓は再び大きく跳ねた。願ってもない誘いだった。

「もちろんです。ぜひ」

私たちは、食後の休憩を挟んで、旅館のラウンジで待ち合わせることにした。
部屋に戻る道すがら、昼間とは違う、月の光に照らされた温泉街を歩いた。
昼間とは違う、幻想的な雰囲気。
そして、隣を歩く彼女から漂うほのかな石鹸の香り。私の内側で、何かがゆっくりと、しかし確実に熱を帯び始めているのを感じた。

ラウンジは、落ち着いた照明とジャズのBGMが心地よい空間だった。
窓の外は漆黒の闇が広がり、時折、遠くの街明かりが瞬いている。
私たちは隅の席を選び、ハーブティーを注文した。
夕食の時とはまた違う、しっとりとした空気が二人を包み込む。

会話は、昼間の堅苦しさから解放され、より個人的なものへと移っていった。
お互いの夢、過去の経験、そして恋愛観。
これまで誰にも話したことのなかった心の深い部分を、なぜか彼女には自然と話すことができた。
そして、彼女もまた、自身の弱さや悩みを隠さずに打ち明けてくれた。

「私ね…SNSで隼人さんのコメントを見るたび、なんて誠実な人なんだろうって思ってたんです。言葉の端々から、その優しさが伝わってきて」

彼女の言葉に、胸が高鳴る。自分では意識していなかった内面を、彼女は見抜いていた。

「ありがとうございます。悠希さんのことは…いつも、素敵な感性を持った憧れの人だと思っていました。写真も、文章も…」

「ふふ、ありがとうございます。でも、こうしてお話しすると、SNSの印象とは全然違いますね。もっと…温かい方なんだなって」

温かい、という言葉が心に響いた。それは、私がずっと求めていたものだったのかもしれない。
仕事に追われる日々の中で、いつしか失っていた、人間らしい温かさ。それを、彼女は私の中に見てくれた。

会話が途切れた時、沈黙が訪れた。しかし、それは決して気まずいものではなかった。
むしろ、心地よい静けさの中で、お互いの存在をより強く感じているようだった。
視線が絡み合い、どちらからともなく、ゆっくりと距離が縮まっていく。

彼女の瞳に映る自分の顔は、夕食の時よりもずっと穏やかで、少しだけ、期待に輝いているように見えた。
彼女もまた、同じような表情をしていた。
言葉はなくとも、心の中で通じ合っている何かがある。そんな確信が芽生えた。

ハーブティーはとっくに冷めていた。時間も随分遅くなっていることに気づく。
しかし、この特別な時間が終わってしまうのが惜しくて、どちらも立ち上がろうとはしなかった。

やがて、彼女がおずおずと手を伸ばし、私の手にそっと触れた。その指先は、少しだけ冷たかったけれど、確かな温もりがあった。

「あの…」

彼女の声は、わずかに震えていた。

「はい」

「もう少しだけ…このまま、一緒にいてもらえませんか?」

その言葉に、私の理性はとうに限界を超えていた。高鳴る心臓の音を、彼女に聞かれているのではないかと思ったほどだ。

「喜んで」

そう答えるのが精一杯だった。私たちは立ち上がり、ラウンジを出た。
長い廊下を、私たちは無言で歩いた。足音だけが、静かな廊下に響く。先に彼女の部屋の前まで来た時、私たちは立ち止まった。

「…入っても、いいですか?」

私の問いかけに、彼女は小さく頷いた。
彼女の部屋のドアを開けて中に入ると、昼間とは雰囲気が変わっていた。間接照明だけが灯され、柔らかい光が部屋全体を包み込んでいる。微かに、甘い香りが漂っていた。

「あの…少し、散らかっていて…」

彼女が申し訳なさそうに言った。

「全然。素敵な部屋ですね」

そう言うと、彼女は安心したように微笑んだ。
ドアを閉め、私たちは部屋の中で向き合った。
昼間の明るさの下では気づかなかったけれど、彼女の浴衣の帯は、少しだけ緩んでいるように見えた。
湯上がりの火照りが、まだ残っているのだろうか。

お互いに、次に何をすべきか分からずにいた。
しかし、高まりきった感情は、もう抑えきれるものではなかった。
私が、ゆっくりと彼女に手を伸ばし、頬に触れた。
驚いたような表情をしたが、すぐに目を閉じて、私の手に頬を寄せた。その滑らかな肌の感触に、体が震える。

「綺麗…」

心からそう思った言葉が、自然と口からこぼれた。彼女は何も言わなかったけれど、その表情は、私の言葉を喜んでいるように見えた。

ゆっくりと、彼女の唇に私の唇を重ねた。最初は戸惑っているようだった彼女も、すぐに受け入れてくれた。
柔らかく、温かい唇。甘い香りが、鼻腔をくすぐる。キスは、だんだんと深くなっていった。舌が絡み合い、お互いの存在を確かめ合うように、求め合った。

浴衣の帯に手をかけ、ゆっくりと解いていく。するりと滑り落ちた浴衣の下には、薄い布だけを纏った彼女の体が現れた。
淡い光の中で、その肌は陶器のように白く輝いている。息を呑むほどの美しさだった。

「…隼人さん…」

私の名前を呼ぶ彼女の声は、熱を帯びていた。

肌襦袢の紐を解くと、露わになったのは、豊かな胸元と、しなやかな体の曲線だった。
白い肌の上に、湯上がりの火照りによる赤みが差している。その全てが、私の理性を吹き飛ばした。

「触れても…いい?」

震える声で尋ねると、彼女は静かに頷いた。

私は、恐る恐るその白い肌に触れた。柔らかく、吸い付くような肌の感触。指先で優しく鎖骨をなぞり、そのまま胸元へと下りていく。
ふっくらとした膨らみは、私の手に収まりきらないほど豊満だった。

「んん…」

彼女から甘い吐息が漏れる。その反応に、私の興奮はさらに高まった。
小さな突起を指先で弾くと、彼女の体がビクッと震えた。

「そこ…」

掠れた声で、彼女が言った。私はその言葉に従い、優しく、そして少しだけ意地悪く、突起を刺激し続けた。
彼女の喘ぎ声が、少しずつ大きくなっていく。

「もっと…」

彼女の誘うような声に、もう限界だった。
彼女の体を抱き上げ、ベッドへと向かう。

柔らかいシーツの上に下ろすと、彼女は私を見上げて、潤んだ瞳で微笑んだ。

私も自分の浴衣を脱ぎ捨て、彼女の隣に横たわった。
お互いの体が触れ合うと、体温が伝わり、さらに熱が高まるのを感じた。

優しくキスをしながら、彼女の体を下へと辿っていく。お腹、腰、そして太もも。滑らかな肌の感触を堪能しながら、ゆっくりと愛撫した。
彼女の体は、私の触れる場所に反応して、敏感に震えていた。

そして、彼女の足を開き、その柔らかな場所に顔を埋めた。
甘く、芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。その神聖な場所に触れることに、畏敬の念すら感じた。
優しく舌を這わせると、彼女の体が大きく跳ねた。

「ひゃっ…!」

可愛らしい悲鳴。その反応に、私の心は満たされる。柔らかな部分を優しく開き、その中心にある硬い部分を舌でなぞった。

「あぁ…そこぉ…」

悠希の声が、熱を帯びていく。その言葉に励まされ、さらに丁寧に、そして少しずつ大胆に、彼女の秘部を求めた。

「んん…もう…ダメェ…」

悠希の腰が浮き上がり、体が弓なりになる。快感の波が、彼女を襲っているのが分かった。甘い熱が溢れ出し、私の顔を濡らす。

「すごい…」

思わずそう呟くと、彼女は恍惚とした表情で私を見下ろした。

「隼人さん…もう…」

その言葉に、私も限界が近いことを悟った。
体を起こし、彼女の体の間に収まる。熱く、湿った場所が、私の体を優しく包み込んだ。ゆっくりと、しかし確実に、奥へと進んでいく。

「っ…!」

彼女の息を呑む音が聞こえた。そして、私の体も、彼女の温かさに包まれて歓喜に震えた。

「気持ち…いい…」

そう呟くと、彼女は私の首に腕を回し、強く抱きしめてきた。

「私も…すごく…」

そこからは、もう、理性の入る隙はなかった。お互いを求め合い、激しく体をぶつけ合った。
汗ばんだ肌が擦れ合う音、熱い吐息、そして、甘く乱れた喘ぎ声。それだけが、部屋に響き渡る。

「もっと…」

「隼人さん…」

名前を呼び合い、求め合う。愛おしさと、激しい欲望が混じり合い、私たちを一つにしていく。

「イクっ…!イクよ…!」

私の声に呼応するように、彼女もまた叫んだ。

「来てッ…!来てぇっ!」

そして、二人同時に、至福の瞬間を迎えた。熱いものが、彼女の体の中で解き放たれる感触。
そして、彼女の体が、私のものを受け止めて、キュッと締め付けるのを感じた。

「あぁ…あああ…!」

「っくはぁっあッ!」

快感の波が引き、私たちはしばらくの間、お互いを抱きしめ合ったまま、動けずにいた。
汗で濡れた肌が触れ合い、二つの心臓の音が、静かに重なり合っていた。

「…気持ち、よかった…?」

悠希が、私の胸に顔を埋めたまま、掠れた声で尋ねた。

「…最高だったよ」

そう答えると、彼女は満足したように、私の胸元に顔を擦り付けた。

この非日常の空間で、私たちはただのSNSの知り合いでも、疲れ果てた日常を送る人間でもなかった。
ただの、男と女。惹かれ合い、求め合い、そして一つになった。
この夜に生まれた絆は、一時的な熱狂なのか、それとも…そんな考えが、頭の片隅をよぎったが、すぐに打ち消した。
今はただ、この温もりの中にいたい。彼女を抱きしめ、私も目を閉じた。

カーテンの隙間から差し込む朝の光が、まぶたを優しく撫でた。
ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井がそこにあった。
柔らかなシーツ、微かに残る甘い香り。そして、隣で規則正しい寝息を立てている、愛おしい人の存在。

昨夜の出来事が、洪水のように脳裏に蘇る。
触れ合った肌の熱、絡み合った指先、甘く乱れた吐息、そして、一つになった瞬間の強烈な快感。
それは、現実離れした、あまりにも甘美な夢のようだった。
しかし、隣に眠る彼女の温もりだけが、それが紛れもない現実であったことを教えてくれる。

横を向くと、彼女は気持ちよさそうに眠っていた。
長い髪がシーツの上に広がり、無防備な寝顔は、昨夜の情熱的な姿とはまた違う、幼いような愛らしさを湛えている。
その頬に、そっと手を伸ばし触れる。滑らかな肌の感触に、再び胸が高鳴るのを感じた。

「…んん…」

私の指先に気づいたのか、彼女が小さく身じろぎ、そして、ゆっくりと目を開けた。まだ眠気の残る、潤んだ瞳が私を捉える。

「…おはよう…」

掠れた、しかし優しい声で、彼女が言った。

「おはよう、悠希さん」

私も同じように囁き返した。言葉はそれだけで十分だった。言葉にならない感情が、視線と、触れ合いの中で通じ合う。

しばらくの間、私たちはただ見つめ合っていた。昨夜の余韻が、まだ部屋の中に満ちている。
恥ずかしさがないわけではなかったけれど、それ以上に、深い満足感と、お互いを大切に思いたいという気持ちが勝っていた。

彼女が、おずおずと私の頬に手を伸ばし、優しく撫でた。

「本当に…夢みたい…」

そう呟く彼女の声は、昨夜の喘ぎ声のように熱を帯びていた。

「僕もだよ。まさか、こんな風に悠希さんと過ごせるなんて、思ってもいなかった」

「ふふ…私も。SNSで隼人さんと繋がった時、いつかお会いできたらいいなって、漠然と思ってましたけど…こんな形で叶うなんて」

私たちは、まるで宝物を確認するように、昨夜の出来事を胸の中で反芻していた。肌に残る微かな痕跡、記憶に焼き付いた甘い感触。
それら全てが、この非日常の一夜がどれだけ特別だったかを物語っていた。

しかし、朝の光は、非日常の終わりを容赦なく告げる。窓の外からは、鳥のさえずりや、旅館の従業員の控えめな気配が聞こえてくる。
私たちの特別な時間は、もうすぐ終わりを迎える。

「…今日の午後には、ここを出ないといけないんだ」

現実を突きつけるような言葉を、私が先に口にした。言いたくなかったけれど、言わなければならないことだった。

彼女の表情に、微かな翳りが差した。

「…そうですよね…」

その短い言葉に、彼女も同じように感じていることが伝わってきた。
この旅館を出れば、私たちはそれぞれの日常に戻る。
東京と、そして彼女の活動拠点である街。
地理的な距離だけではない、それぞれの生活、仕事、人間関係。それらが、私たちを再び隔てることになる。

ベッドの中で、彼女が私の体にそっと寄り添ってきた。
肩に回された腕、背中に感じる柔らかな体の感触。昨夜はあんなにも激しく求め合った体が、今はただ、お互いの温もりを確かめ合うように触れ合っている。

「…また…会えますか…?」

不安げに尋ねる彼女の声は、か細く震えていた。その言葉に、私の心臓は締め付けられるように痛んだ。

「会いたい。絶対に、また会いたい」

迷わずそう答えた。この一夜限りの関係で終わらせたくない。
そう強く思った。彼女のSNSの投稿を見るたびに感じていた憧れは、昨夜、愛情へと変わったのだから。

「でも…どうやって…」

現実的な問題が、私たちの前に立ちはだかる。
それぞれの生活があり、お互いのことをまだ全て知っているわけではない。この非日常の空間で生まれた関係を、日常に持ち込むことができるのだろうか。

「大丈夫。どうにかして、また会えるようにしよう。連絡先を交換して…」

SNSでの繋がりだけでなく、もっと直接的な連絡手段を持とうと提案する。
彼女は私の言葉に、少しだけ安心したような表情を浮かべた。

腕の中の彼女をより強く抱きしめた。この温もりを、離したくない。しかし、時間は刻一刻と過ぎていく。
非日常は終わりを迎え、私たちは現実へと戻らなければならない。

ベッドから出て、身支度を始める時間になった。浴衣を脱ぎ、服を着る。
昨夜、勢いのまま脱ぎ捨てた服は、少しだけくしゃくしゃになっていた。その様子を見るたび、昨夜の情熱が鮮やかに蘇り、顔が熱くなるのを感じた。

彼女も、ゆっくりとベッドから起き上がり、服を着始めた。
その背中を見ていると、昨夜、その白い肌に触れ、愛撫した感触が蘇ってくる。
もう一度、あの体を抱きしめたいという衝動に駆られたが、今は、現実を受け入れなければならない。

身支度を終え、部屋を出る準備ができた。チェックアウトの時間が近づいている。
重い足取りで部屋のドアへと向かう私たち。非日常への扉を開けた時とは違う、複雑な感情が胸に渦巻いていた。

朝食は、個室ではなく広間だった。
他の宿泊客も数組おり、昨夜のような二人だけの世界とは全く違う雰囲気だった。
私たちは控えめに会話を交わしながら、朝食を済ませた。
普段なら気にならない周囲の視線が、今日はやけに意識される。
まるで、昨夜の秘密を見透かされているような、そんな気さえした。

部屋に戻り、チェックアウトの準備をする。
来た時よりも荷物は増えていないはずなのに、鞄に荷物を詰める手はどこかもどかしい。
帰り支度を終え、部屋を見渡す。
この部屋で、彼女と、夢のような時間を過ごしたのだ。
ベッド、湯船、そして窓の外の景色。
その全てが、昨夜の記憶と結びついて、特別な意味を持っているように感じられた。

部屋を出て、フロントへと向かう。
並んで歩く私たちの間には、朝よりもさらに強い現実の空気が流れていた。
チェックアウトの手続きを済ませ、旅館の玄関を出る。
清算を終えたことで、非日常は完全に終わりを告げたのだと、突きつけられた気分だった。

「…あの、駅まで送ってもらえるみたいなので、一緒にどうですか?」

彼女が、気遣わしげに尋ねてくれた。その優しさが、胸に染みる。

「ありがとうございます。助かります」

旅館の送迎車に乗り込み、私たちは並んで座った。
車窓から流れる景色は、来た時に見たものと同じはずなのに、全く違って見えた。
あの時は、これから始まる非日常への期待に胸を膨らませていた。
今は、終わってしまった非日常への寂しさと、現実に戻ることへの複雑な感情が入り混じっている。

車内での会話は、途切れ途切れだった。
何を話しても、昨夜の出来事の前では陳腐に思えてしまうような気がした。
しかし、沈黙もまた、お互いの気持ちを理解し合っているようで、嫌ではなかった。

駅に到着し、車を降りる。
改札へと向かう前に、私たちは立ち止まった。いよいよ、本当の別れの時だ。

「あの…連絡先、交換しましょう。SNSだけじゃなくて…」

私がそう言うと、彼女は安心したように微笑み、スマートフォンの画面を操作した。
LINEのQRコードを読み取り、お互いに友だち追加をする。
たったこれだけの行為なのに、私たちの関係が、非日常の泡ではなく、現実世界にも確かに繋がっているのだという実感を与えてくれた。

「すぐに…とは難しいかもしれないけど、落ち着いたら、また会いましょう」

私の言葉に、彼女は力強く頷いた。

「はい。私も、必ずまたお会いしたいです。隼人さんと過ごした時間、本当に特別でしたから」

彼女の真っ直ぐな瞳と、心からの言葉に、胸が熱くなる。
この出会いは、一夜限りの間違いなんかじゃなかった。そう確信できた。

「僕もです。悠希さんに出会えて、本当によかった」

私たちは、お互いの手を取り合った。朝よりも少し温かくなったその手から、確かな絆が伝わってくる。
駅のホームに、電車の接近を知らせるアナウンスが響いた。別れの時間は、容赦なく訪れる。

「じゃあ…」

「はい…」

お互いに、それ以上の言葉は必要なかった。手に持った荷物が、非日常からの帰還を促している。

「…気をつけて」

そう言い残し、私は改札へと向かった。
後ろを振り返りたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。
振り返って、もし彼女が泣いていたりしたら、きっとこの場を離れられなくなってしまうから。

ホームで電車を待っている間、スマートフォンの画面を見た。
先ほど交換した彼女のLINEのトーク画面。まだ何もメッセージは送られてきていない。
しかし、そこに表示されている彼女の名前を見るだけで、心が温かくなる。

電車に乗り込み、窓際の席に座る。窓の外の景色が、ゆっくりと流れ始めた。旅館のある山々が遠ざかっていく。
心の中には、非日常の余韻がまだ強く残っていた。
湯けむりの匂い、肌の感触、彼女の声、そして、あの情熱的な夜。
それらは全て、鮮やかな記憶となって、私の心を彩っている。

そして同時に、不思議と、現実の日常に対する活力が湧いてくるのを感じていた。
あれほど疲弊していた心が、非日常での特別な出会いによって、再び息を吹き返したのだ。
単なる気晴らしのために訪れた温泉旅行が、私の人生に、予想もしなかった光をもたらしてくれた。

スマートフォンを手に取り、彼女のトーク画面を開く。何かメッセージを送ろうとして、指が止まる。まだ、言葉にするのは難しい。
この特別な感情を、安っぽい言葉で汚したくなかった。

代わりに、心の中で彼女に語りかける。

「悠希さん、ありがとう。また必ず会いましょう」

電車は速度を上げ、都会へと向かっていく。窓の外には、見慣れた風景が少しずつ近づいてくる。
私の日常はこれからも続くだろう。仕事に追われ、ストレスを抱える日々は、簡単には変わらないかもしれない。

しかし、私の中には、非日常で生まれた確かな温もりがある。
遠く離れた場所に、心を寄せ合える大切な人ができた。その事実が、私を強くしてくれる。

非日常への扉は一度閉ざされた。けれど、湯けむりの中で生まれた絆は、形を変えて、私の日常を照らし続けてくれるだろう。
そしていつか、再びその扉を開け、彼女ともう一度、心と体を重ね合わせる日が来ることを信じながら。

私は、窓の外の景色を眺め続けた。遠ざかる山並みの向こうに、彼女の笑顔が見えるような気がした。
そして、私の心は、新たな始まりへの希望で満たされていた。

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