「ミキちゃん、今日もありがとね!」
俺の声は、いつもより少しばかり上擦っていた。ソープランド「padrona(パドローナ)」
その煌びやかな空間に、俺、大島真輝人は、今日も吸い寄せられるように足を踏み入れていた。
アルバイトの給料は、この店に通うためにあると言っても過言じゃない。
俺は27歳、未婚。今まで一度も女性と真剣にお付き合いしたことのない、いわゆる素人童貞だ。
そんな俺が、初めて本気で好きになった女性が、この店のミキだった。
「真輝人くん、また来てね!」
ミキの柔らかな声が、俺の背中を優しく押す。
その笑顔は、まさに天使。透き通るような白い肌、ハーフのような端正な顔立ち。
そして、少し控えめなBカップの胸。それでも、その形が俺の心を掴んで離さない。
毎回、彼女のサービスを受けるたびに、俺の心は高鳴り、そして、深く沈む。
彼女は、手の届かない場所にいる。このパドローナという閉ざされた空間でのみ、俺は彼女と触れ合うことが許される。
その事実が、俺の胸を締め付けた。
今日も、いつものように指名料とコース料金を支払い、ミキが待つ部屋へと向かった。
部屋のドアが開くと、ミキの甘い香りが俺の鼻腔をくすぐる。
フローラルな香りに、どこか甘酸っぱい香りが混じり合い、俺の全身を包み込む。
それは、まるで彼女の体温が乗り移ったかのような、抗いがたい誘惑だった。
彼女は、優雅な仕草で俺を迎え入れてくれた。その細い指が、俺の滞在時間を知らせる砂時計に触れた時、チリ、と微かな電流が走ったような錯覚を覚えた。
「真輝人くん、お疲れ様。今日はゆっくりしていってね」
その声に、俺の心臓はドクン、と大きく跳ねた。
もう何回目になるだろうか、この部屋で彼女と二人きりになるのは。
それでも、毎回新鮮な緊張が俺の全身を駆け巡る。
ベッドに腰を下ろすと、ミキが俺の隣に座り、優しく手を握ってくれた。
その柔らかな掌の感触に、俺の身体は粟立つ。彼女の指先が、俺の指の隙間をなぞる。
その感触だけで、俺の神経は研ぎ澄まされ、全身の毛穴が開きそうになる。
「今日は、どんなことしてほしい?」

彼女の潤んだ瞳が俺を見つめる。
その瞳の奥には、どこか寂しそうな、しかし俺を誘うような光が宿っているように感じられた。
いつもなら、俺は恥ずかしがってモゴモゴとごまかすのに、今日は違った。
胸の奥に秘めていた衝動が、堰を切ったように溢れ出す。喉が渇き、呼吸が浅くなる。
鼓動が速まり、耳の奥でドッドッドッと激しい音を立てる。
「あの…ミキちゃん…」
俺は、意を決して口を開いた。
心臓がうるさく鳴り響き、自分の声が震えているのがわかる。
その声は、自分のものではないかのように、どこか遠くで響いていた。
俺の額には、うっすらと汗がにじんでいた。
「なぁに・・・?」
「連絡先…教えてもらえませんか…?」
ミキの顔から、一瞬、笑顔が消えた。
その表情を見た瞬間、俺の胸に冷たいものが流れ込んだ。ああ、言ってしまった。
きっと、彼女を困らせてしまったんだ。彼女の瞳が、僅かに揺れたように見えた。
「…ごめんね、真輝人くん。お店のルール違反になるから、それはできないの」
寂しそうな、でも毅然としたミキの声が、俺の耳に届いた。
その言葉は、俺の胸に鋭いナイフのように突き刺さった。
キン、と脳裏で何かが弾けるような音がした。分かっていた。分かっていたことだ。
それでも、どこかで、ほんのわずかな希望を抱いていたのだ。
俺の肩が、ストン、と落ちる。全身の力が抜けていくような感覚に陥った。
「そっか…ごめんね、変なこと言って…」
情けない声しか出なかった。俺の未熟な想いが、彼女を困らせた。
その事実に、俺はいたたまれない気持ちになった。顔を上げることができず、ミキの手を握っていた自分の手が、ゆっくりと離れていくのを感じた。
その日、ミキのサービスは、いつもよりずっと遠く感じられた。
彼女の指が俺の肌を撫でるたびに、心が締め付けられる。ヌル…と滑るような感触が、俺の皮膚の表面を這い、内側から冷えていく。
触れているのに、触れられない。そのもどかしい距離が、俺を苦しめた。
ミキの吐息が俺の耳元を掠めるたびに、俺の身体は反応するのに、心はまるで空っぽのようだった。
サービスが終わった後も、俺の胸の中には、彼女の「ごめんね」という言葉が、まるで呪文のように響き続けていた。
翌日から、俺はミキに会うのが少し怖くなった。
また断られたら?もっと嫌われたら?
そんな臆病な考えが、俺の頭の中を渦巻いていた。俺の足は、パドローナに向かうことを躊躇するようになった。
それでも、ミキへの想いは募るばかりで、俺の生活は、まるで色を失ったようだった。
ゲームセンターのアルバイトも、以前のように熱が入らない。
客との会話も、適当に相槌を打つだけになった。ただ漠然と日々を過ごす。そんな虚無感に苛まれていたある晩のことだった。
アルバイトを終え、繁華街を歩いていた俺は、スマートフォンでSNSを眺めることに夢中になっていた。
ぼんやりとスクロールを続けていると、ふと顔を上げた。その瞬間、目の前に人影。
ドンッ!
鈍い音と共に、俺は誰かとぶつかってしまった。
俺の身体が大きく揺らぎ、バランスを崩してよろめく。左肩に、強烈な衝撃が走った。慌てて相手に深々と頭を下げた。
「すみませんでした!」
しかし、相手は俺の謝罪を受け入れるどころか、低い声で威嚇してきた。
「おい、てめぇ!どこ見て歩いてんだ!」
顔を上げると、そこにいたのは、見るからにガラの悪い男が二人組。
一人は、ピアスだらけの顔に、いかにもなチンピラの雰囲気を漂わせている。
もう一人は、真っ赤に染めた髪を揺らし、鋭い目つきで俺を睨みつけていた。
俺の心臓は、ドクドクと警鐘を鳴らし始めた。まるで、心臓が口から飛び出しそうなほどに激しく脈打っていた。
全身の血が、一瞬で冷えていくような感覚に襲われた。
「す、すみません…本当に…」
再度、頭を下げ、言葉を紡ごうとするが、喉がひりつき、声がうまく出ない。
まるで、喉が石で塞がれたかのように、呼吸が困難になる。俺は、本能的に危険を察知していた。
このままでは、ただでは済まされない。恐怖で足がすくみ、身体が動かない。足元から、じんわりと冷たい汗が噴き出すのを感じた。
「おいおい、そんな謝って済むと思ってんのか?こら!あぁん!?」
一人の男が、俺の胸ぐらを掴んだ。
ゴワゴワとしたシャツの生地が、俺の指に食い込む。
もう一人の男は、俺の携帯電話をひったくり、地面に叩きつける。
パキィン!と嫌な音がして、画面に亀裂が入った。ガラスが砕ける音が、俺の耳に突き刺さる。
「…っ!」
俺は、ただされるがままだ。
身体は震え、足は棒のよう。このまま殴られるのか、それとももっと酷い目に遭わされるのか。
俺の頭の中は、最悪のシナリオばかりが駆け巡っていた。目頭が熱くなり、奥歯を食いしばる。
その時だった。
「やめてください!」
凛とした声が、俺と男たちの間に割って入った。
その声の主は、俺の前に立ちはだかり、男たちを睨みつけていた。
「…ミキちゃん?!」
信じられない光景だった。そこに立っていたのは、他でもない、俺が想いを寄せるミキだったのだ。
彼女は、俺を庇うように腕を広げ、男たちに立ち向かっていた。その小さな背中が、俺にはとても大きく見えた。
「あぁ?なんだ、この女。おっ!可愛いじゃねぇか」
「おい、こっち来いよ。俺らと良い事しようぜ!」
「やめてよ!」
男たちは、ミキの存在に気づくと、下卑た笑みを浮かべ、彼女の腕を掴んた。
ニヤニヤと醜悪な笑みを浮かべる男たちの顔が、俺の脳裏に焼き付く。
俺の心臓は、恐怖とは別の感情で脈打っていた。守らなければならない。
俺が、ミキを。だが、身体は、まだ動かない。情けない。なんて情けないんだ、俺は。唇が震え、全身が熱くなる。
街行く人々は、まるで空気のように俺たちを避けていく。誰も助けに入ろうとはしない。
ヒソヒソと囁く声が聞こえるが、誰もこちらを直視しようとしない。この繁華街の闇に、俺たちの存在は吸い込まれていくようだった。
まるで、俺たちがこの世に存在しないかのように、人々は通り過ぎていく。
その時、背後から、低く、しかし力強い声が響いた。
「その、薄汚ねぇ手をどけろ・・・」