Uncategorized

心の隙間を埋めるもの

俺、小川徹、二十歳。

コンビニの深夜バイトで、その日暮らしの生計を立てていた。

大学も行かず、特に夢も目標もなく、ただ漫然と毎日を過ごしていた俺は、常に心の中に、ぽっかりと空いた穴のような虚しさを感じていた。そんな日常に、何か変化が欲しくて、俺は出会い系アプリに登録した。

「癒やしを求めている」という、ごくありふれたプロフィール文は、俺の偽らざる本音だった。


何人かとメッセージを交わしたが、どれも表面的な会話で、すぐにフェードアウトしていった。そんな中、裕美さんとマッチングした時、正直、少し驚いた。

プロフィールには「シングルマザー」とあり、年齢も俺より9歳上の二十九歳。

俺とは住む世界が違う、そう思ったのが正直なところだ。けれど、彼女のプロフィールに書かれた「日々の疲れを癒してくれるような、穏やかな関係を求めています」という一文が、俺の心に妙に響いた。


メッセージのやり取りが始まったのは、バイトが終わって、自室でぼんやりとスマホを眺めている時だった。


『はじめまして、田村裕美です。徹さんのプロフィール、拝見しました。私も、なんだか、癒しがほしいなって思っていて……』


飾らない、素直な言葉に、俺は少し安堵した。


『小川徹です。こちらこそ、はじめまして。裕美さんのメッセージ、なぜかホッとしますね。俺も、癒しとか、そういうのが欲しくて。コンビニでの立ち仕事、意外と疲れるんですよね』


すぐに返信が来て、会話は想像以上に弾んだ。

裕美さんも、パートの仕事と子育てに追われ、毎日が慌ただしいらしい。

お互いの、どこか満たされない、日常の疲れや悩みを共有し合った。まるで、ずっと昔からの知り合いかのように、何の気兼ねもなく、互いの弱さを見せ合える。不思議な、それでいて心地よい感覚だった。


裕美さんのメッセージは、いつも温かさに満ちていた。

「今日は大変だったね、お疲れ様」

「無理しないでね」

といった、まるで母親のような優しさが滲んでいた。

俺は、そんな彼女の言葉に、少しずつ心を許していった。誰かにこんなにも気遣われることなんて、この数年なかったから。


「徹さん、元気出してくださいね」


そんなメッセージを受け取るたびに、俺の胸の奥に、温かいものが灯るのを感じた。

裕美さんも、俺からの、とりとめのないバイトの話や、日常の愚痴を聞いて、「ふふ、徹さんも大変だね」と笑ってくれる。その「ふふ」という文字だけの笑い声が、なぜか俺の耳に心地よく響き、想像するだけで口元が緩んだ。


メッセージのやり取りが二週間ほど続いたある夜、裕美さんから、カフェのスタンプと共に提案があった。


『もしよかったら、一度、お話してみませんか?近所の公園とか、どうでしょう?』


俺は、一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。会う。遂に、このメッセージだけの関係が、現実になる。期待と、わずかな戸惑いが入り混じった感情が、胸の奥で渦巻いた。


『はい、ぜひ。俺も、裕美さんに会ってみたいです』


そう返信すると、彼女から「やったぁ!」という可愛らしい絵文字が返ってきた。まるで、子供が喜ぶような素直な反応に、俺は思わず笑みがこぼれた。


初めて会う日。約束の公園に向かう足取りは、いつもより軽かった。とはいえ、内心では緊張していた。写真で見た裕美さんは、落ち着いた雰囲気の美人で、年齢の割に若々しい。でも、シングルマザーという現実が、俺の中に漠然とした不安を生んでいたのも事実だ。


公園に着くと、ベンチに座ってスマホをいじっている女性が見えた。長い髪を一つにまとめ、シンプルなワンピースを着ている。それが、裕美さんだった。


「裕美さん?」


俺が声をかけると、彼女はハッと顔を上げた。俺と目が合うと、少しだけ戸惑ったような、でもすぐに安心したような表情を見せた。その、くるくると変わる表情に、俺は引き込まれた。


「あ、徹さん!はじめまして、裕美です」


立ち上がった彼女は、写真で見るよりも少し小柄で、スラッとした体つきだった。その笑顔は、メッセージで感じた温かさそのままだった。


「小川徹です。メッセージだと、ちょっと緊張するんですけど、会ったら、なんか、安心しました」


正直な気持ちを伝えると、彼女は「ふふ」と小さく笑った。その笑い声が、公園の木々のざわめきに溶けて、俺の耳に心地よく響いた。


ベンチに並んで座り、他愛のない話をした。休日の過ごし方、好きな食べ物、学生時代の思い出。裕美さんは、子供の話もしてくれた。


「小学生の男の子がいるんです。徹さんくらいのお兄さんがいたら、きっと喜ぶだろうなぁ」


そう言って、裕美さんは少し寂しそうな、でも優しい目で、遠くで遊ぶ子供たちを見ていた。

俺は、その横顔に、何とも言えない胸の痛みを感じた。彼女の背負っているもの。俺には想像もつかないほどの重さだろう。でも、彼女はそれを、決して弱みとしては見せず、むしろ、優しさと強さに変えているように見えた。


俺は、そんな裕美さんの持つ、母性とも呼べる温かさに、ただただ、惹かれていった。


初デートは、近所のカフェに行った。公園のベンチで話した時とは違い、テーブルを挟んで向かい合って座る。少し距離が近くなったことで、裕美さんの細やかな表情の変化や、声のトーンまで、より鮮明に感じられた。


「徹さんって、若いのに、すごく落ち着いてるんですね」


裕美さんが、俺の目を見て言った。その真っ直ぐな視線に、俺は少しだけ照れた。


「そうですか?あんまり褒められたことないんで、照れますね」


「ふふ。でも、変に気取ってなくて、素直なところが、いいなって思います」


彼女の言葉が、じわじわと俺の心に染み渡る。褒められるのが苦手な俺でも、裕美さんに言われると、なぜか素直に受け入れられた。


カフェでの時間はあっという間に過ぎ、帰り道、俺は勇気を出して言った。


「裕美さん、もしよかったら、また会ってもらえませんか?」


彼女は、一瞬だけ驚いたような顔をして、すぐに満面の笑みを浮かべた。


「はい!もちろん!徹さん、今日、すごく楽しかったです」


その笑顔が、俺の心を鷲掴みにした。


二回目のデートは、少し足を伸ばして、水族館に行った。薄暗い館内で、色とりどりの魚たちが優雅に泳ぐ。青い光に包まれた空間で、俺たちは並んでその光景を見つめた。


「わぁ、綺麗…」


裕美さんが、小さく呟いた。その声は、どこか夢見るような、少女のような響きを含んでいた。

俺は、そんな彼女の横顔を、そっと盗み見た。彼女は、普段のしっかりした「お母さん」の顔とは違う、無邪気な表情をしていた。


俺たちは、イルカショーを最前列で見て、水しぶきを浴びてキャーキャーと声を上げた。裕美さんが、まるで子供のように目を輝かせて笑う。その笑顔を見るのが、俺はたまらなく好きだった。


帰り道、偶然、手が触れた。その瞬間、裕美さんの指が、小さく震えるのが分かった。俺は、そのまま、そっと彼女の指を握り返した。彼女の手は、最初は少し冷たかったけれど、すぐに温かくなった。そして、俺の手を、ぎゅっと握り返してくれた。その小さな温もりが、俺の心を埋め尽くした。


夕食は、少し洒落たイタリアンレストランを選んだ。水族館の興奮が冷めやらぬまま、会話は途切れることがなかった。


「徹さん、イルカショー、楽しかったですね!」


「はい!裕美さんが、すっごく楽しそうで、俺も嬉しかったです」


裕美さんが、パスタをフォークでくるくると巻きながら、優しい眼差しで俺を見た。


「徹さん、本当に優しいね。私の話も、いつも真剣に聞いてくれるし」


その言葉に、俺は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

彼女の優しさに触れるたびに、俺の中の、今まで乾ききっていた部分が、少しずつ潤っていくのを感じる。裕美さんの存在が、俺の心に温かい水が染み渡るように、ゆっくりと広がっていく。


食事が終わり、店を出ると、夜風が心地よかった。駅までの道を二人でゆっくりと歩く。賑やかな通りから少し外れた、人気のない道に入った時、裕美さんが、ふと、俺の袖を掴んだ。


「徹さん……あのね」


彼女の声が、少し震えているように聞こえた。俺は、ドキッとしながら、彼女の方を振り向いた。


裕美さんは、少し俯いて、その顔を赤くしていた。街灯の明かりが、彼女の横顔を優しく照らす。


「今日、徹さんと一緒にいて、すごく楽しかった。…私、徹さんといると、いつも、心が温かくなるの」


彼女の言葉に、俺は何も言えなかった。ただ、裕美さんの、その震える指先が、俺の袖を強く握りしめているのを感じた。


俺は、意を決して、裕美さんの手を握り返した。彼女の手は、小さくて、少しだけ冷たかった。でも、俺が握ると、すぐに温かくなった。そして、先ほどよりも強く、俺の手を握り返してくれる。


「俺も、裕美さんといると、落ち着くし、楽しいです。…もっと、裕美さんのこと、知りたい」


俺の言葉に、裕美さんは顔を上げた。その瞳は、潤んでいて、街灯の光を反射してキラキラと輝いていた。


「徹さん……」


彼女の唇が、小さく開く。俺は、もう、我慢できなかった。


一歩、裕美さんに近づき、その肩に手を伸ばす。裕美さんは、何も言わず、ただ俺を見上げていた。俺の指が、彼女の頬に触れる。その肌は、驚くほど滑らかで、少しだけ熱を持っていた。

俺の心臓が、ドクドクと激しく脈打つ。
そして、俺は、ゆっくりと顔を近づけた。裕美さんの吐息が、俺の肌を撫でる。甘く、誘うような香りがした。


その時、裕美さんの携帯が、着信音を鳴らした。現実に引き戻されたかのように、俺はハッとして手を引っ込めた。


「ご、ごめんなさい…」


裕美さんは、慌ててスマホを取り出し、画面を確認した。


「あ、子供からだ…」


彼女の声に、一瞬だけ、寂しさが滲んだように聞こえた。俺は、またしても、彼女の「母親」という現実を突きつけられた気がした。


「ごめんね、徹さん。そろそろ帰らないと…」


裕美さんは、申し訳なさそうに、俺の顔を見た。


「いえ、大丈夫です。俺も、そろそろ帰ります」


俺は、そう言うのが精一杯だった。心臓がまだ、ドクドクと音を立てていた。


駅の改札まで見送った。裕美さんは、最後に、小さく微笑んで言った。


「今日は本当にありがとう。またね、徹さん」


そして、振り返ることなく、人混みの中に消えていった。


俺は、その場にしばらく立ち尽くした。掌に残る、裕美さんの手の温もり。そして、キス寸前まで近づいた、あの感覚。あれが、現実だったのか。


家に着いて、ベッドに倒れ込んだ。

裕美さんの横顔、笑い声、潤んだ瞳、そして、あの時の甘い吐息が、脳裏に焼き付いて離れない。
俺は、ただ癒やしを求めていたはずだった。でも、今は違う。裕美さんのことを、もっと深く知りたい。彼女の全てを、俺のこの手で抱きしめたい。
俺の中に芽生えたこの感情は、もう、単なる「癒やし」なんかじゃなかった。熱くて、切なくて、そして、とても甘い。

その後の夜、裕美さんと二人きりになった時の空気は、張り詰めていた。

間接照明の柔らかな光が部屋を満たし、影と光の中で彼女のシルエットが浮かび上がる。彼女の瞳は、俺の瞳を真っ直ぐに見つめ、その中に宿る情熱と、わずかな不安が混じり合った光が、俺の心を激しく揺さぶった。


「徹さん……」


裕美さんが小さく名前を呼んだその声は、か細く、切なく、俺の全身に電流が走るような衝撃を与えた。

彼女との距離が、一瞬で縮まる。言葉より先に、お互いの体が求め合うように引き寄せられていった。


淡い光の中、二人の影が一つに溶け合う。甘い吐息と震える指先が、お互いの存在を確かめるように触れ合う。裕美さんの香りが、俺の感覚を包み込み、世界から二人だけを切り離したかのように感じられた。


「徹さん…」


彼女の声に応えるように、俺は裕美さんを優しく抱きしめた。

彼女の体は、想像以上に華奢で、俺の腕の中で完璧にはまるようだった。その温もりと柔らかさが、今まで知らなかった感情を俺の中に呼び覚ました。


私たちの間に生まれた親密な時間は、言葉では言い表せないほど深く、美しいものだった。

二つの魂が交わり、お互いを認め合う瞬間。

裕美さんの体が、俺の腕の中で小さく震え、その表情には、これまで見たことのない色が浮かんでいた。


部屋には、俺たちの息遣いだけが響いていた。裕美さんの指が俺の背中に食い込む感触、彼女の甘い囁きと切ない喘ぎ声が、俺の全身を駆け巡った。二人で創り出す美しいリズムが、時間の流れを忘れさせた。


そして、最高の瞬間が訪れた時、裕美さんの体は大きく震え、俺の名前を呼んだ。俺も、彼女の中に全てを解放し、二人で一つになる感覚に包まれた。愛おしさと満足感が入り混じった、言葉にできない充実感が全身に広がった。


どれくらいの時間が経っただろう。俺は、裕美さんの体からゆっくりと体を起こし、その横に横たわった。裕美さんは、何も言わず、ただ、俺の胸に顔を埋め、規則正しい呼吸を繰り返していた。


俺は、裕美さんの柔らかい髪を撫でた。その指先から伝わる温もりが、俺の心を満たしていく。


「裕美さん…」


俺がそっと声をかけると、裕美さんは、俺の胸に顔を埋めたまま、小さく「んん…」と返事をした。


「ごめんね…俺、乱暴だったかな…」


すると、裕美さんは、ゆっくりと顔を上げて、俺を見つめた。その瞳は、まだ潤んでいたが、先ほどのような情欲は消え、代わりに、深い愛情と安堵が宿っていた。


「ううん…徹さん、ありがとう。私、ずっと、こんなに誰かに求められたこと、なかったから…」


そう言って、裕美さんは、俺の頬にそっとキスをした。その唇は、まだ少し腫れていて、甘く、そして温かかった。


夜遅くまで、俺たちは体を寄せ合って横たわっていた。裕美さんは、子供のこと、これまでの寂しさ、そして、俺と出会ってからの心の変化を、静かに語ってくれた。


「徹さんといると、私が私でいられる気がする。…こんなに、自分をさらけ出せるなんて、思わなかった」


俺もまた、裕美さんの言葉に、深く頷いた。裕美さんとの出会いは、俺の人生を変えた。ただ漠然とした虚しさを抱えていた俺の心に、彼女は、光と温もりを与えてくれた。


翌朝、目が覚めると、裕美さんは俺の腕の中で、穏やかな寝息を立てていた。朝日がカーテンの隙間から差し込み、彼女の寝顔を優しく照らしている。その姿は、まるで天使のようだった。


俺は、そっと裕美さんの髪を撫でた。彼女の肌から伝わる温かさ、そして、ほんのりと残る昨夜の香りが、俺の心を、深く満たした。


裕美さんが目を覚まし、俺と目が合うと、少しだけ照れたように微笑んだ。


「おはよう、徹さん」


「おはよう、裕美さん」


俺たちは、顔を見合わせて、自然と笑みがこぼれた。


朝食は、裕美さんが作ってくれた。温かい味噌汁と、焼きたての魚。普通の家庭の朝食。それが、俺には、今まで食べたどんな豪華な食事よりも、温かく、そして美味しく感じられた。


食事中、裕美さんが言った。


「今日、お昼には子供が帰ってくるから・・・」


その言葉に、一瞬だけ、寂しさが込み上げた。けれど、俺はすぐに気持ちを切り替えた。裕美さんには、守るべきものがいる。そして、俺は、その大切なものを、壊すような存在にはなりたくない。


玄関で、裕美さんが、俺を見送ってくれた。


「徹さん、昨日は、本当にありがとう。…また、会える?」


彼女の目に、わずかな不安の色が宿っているのを感じた。俺は、裕美さんの手を握り、その指を強く握りしめた。


「もちろん。また、必ず会いに来ます」


俺は、裕美さんの瞳を真っ直ぐに見つめ、そう告げた。


「裕美さん、俺、裕美さんのこと、大好きです」


俺の言葉に、裕美さんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は、何も言わず、ただ、俺の胸に飛び込んできた。俺は、その華奢な体を、強く、強く抱きしめた。


裕美さんのアパートを後にし、俺は、清々しい気持ちで歩き出した。


裕美さんとの関係は、始まったばかりだ。シングルマザーである裕美さんと、コンビニ店員の俺。世間から見れば、複雑な関係なのかもしれない。でも、俺には、そんなことはどうでもよかった。


俺の心は、今、かつてないほど満たされている。裕美さんの優しさ、強さ、そして、俺だけにしか見せない、あの特別な表情。その全てが、俺を惹きつけてやまない。


この関係が、どこへ向かうのか、まだ分からない。けれど、俺は、裕美さんと共に歩む未来に、確かな光を感じていた。

-Uncategorized