体験談

夜が明けるキス 中編

「加藤さん……ですよね?」

彼女の声は、電話で聞いていたよりも、ずっと、可憐で、そして、俺の心を捉えて離さない魅力に満ちていた。

俺は、ただ頷くことしかできなかった。心臓が、激しく高鳴っている。手のひらには、じんわりと汗が滲んでいた。

「山本綾乃です。今日は、よろしくお願いします」

彼女は、少し緊張した面持ちで、俺の目の前まで歩いてきた。そして、テーブルを挟んで、俺の向かいに座った。その距離が、やけに近く感じられた。

「加藤勇樹です。今日は、お会いできて本当に嬉しいです」

俺は、震える声で、そう答えた。彼女の、飾らない笑顔が、俺の目に焼き付く。その笑顔の奥に、俺が求めていた「何か」がある。そう確信した。

テーブルの向こうで、彼女の指先が、カップの縁をなぞる。その、繊細な指の動きに、俺の視線は釘付けになった。俺は、彼女のすべてを知りたかった。彼女の、その細い指に、いつか、俺の指を絡ませてみたい。彼女の、その柔らかな唇に、いつか、俺の唇を重ねたい。そんな、甘く、そして、どうしようもなく切ない欲求が、心の奥底で芽生え始めていた。

俺たちは、他愛のない会話から始めた。電話で話していた内容の復習のようなものだったが、実際に彼女の表情を見ながら話すのは、まるで違う体験だった。彼女が笑うたびに、俺の心は温かくなった。彼女が真剣な表情で話す時は、俺も真剣に耳を傾けた。

ふと、彼女の視線が、俺の目と合った。一瞬の沈黙。その間に、俺たちは、お互いの心の奥底を覗き込んだような気がした。

「あの……加藤さんって、写真よりも実物の方が、もっと素敵ですね」

彼女が、はにかむように言った。その言葉に、俺の頬が熱くなるのを感じた。

「山本さんこそ……写真よりも、ずっと魅力的です。特に、その笑顔」

そう答えると、彼女は少しだけ俯き、照れたように笑った。その仕草一つ一つが、俺の心を強く惹きつけた。

この出会いは、偶然ではない。そう、強く感じた。マッチングアプリという、現代的な出会い方でありながら、まるで昔からの知り合いだったかのように、自然に互いの日常に溶け込んでいく。俺と綾乃さんの間に流れる空気は、穏やかで、そして、どこか甘かった。

俺は、この関係が、ただの出会いでは終わらないことを、直感的に悟っていた。彼女は、俺の人生に、新しい光を灯してくれる存在になるだろう。そして、俺もまた、彼女の心の拠り所になりたい。その一心で、俺は、目の前の彼女を見つめ続けた。

彼女の肌は、光を吸い込むように滑らかに見えた。そして、彼女の座る姿勢から、ほのかに甘い香りが漂ってくるような気がした。それは、俺を本能的に惹きつける、女性の匂いだった。俺は、彼女のすべてに触れたいという衝動を、必死で抑え込んだ。まだ、その時ではない。まだ、この感情を、これ以上深める時ではない。しかし、その衝動は、俺の胸の奥で、確かに燃え上がっていた。

「また、会いたいですね、加藤さん」

彼女の言葉に、俺は間髪入れずに答えた。

「はい、ぜひ。僕も、山本さんと、もっとお話したいです」

そう言って、俺は、彼女の澄んだ瞳の奥を見つめた。その瞳の中に、俺の未来が、ぼんやりとだが、確かに映し出されているような気がした。

二人の間には、初めて出会ったばかりとは思えないほどの、強い絆が生まれ始めていた。それは、マッチングアプリという現代のツールがもたらした、新たな「運命」の形だった。

初めて綾乃さんと会ってから、俺たちの関係は、目に見えて加速していった。平日は、以前にも増してメッセージと電話のやり取りが続いた。週末は、必ずと言っていいほど、二人で出かけるようになった。カフェでのんびり過ごしたり、美術館で絵画を鑑賞したり、時には少し足を延ばして、自然豊かな公園を散策したりもした。どんな時も、俺の隣には、いつも綾乃さんがいた。

彼女といる時間は、まるで魔法にかかったようだった。公認会計士としての仕事は、常に論理的思考を求められ、数字という無機質なものと向き合う日々だ。しかし、綾乃さんと話していると、俺の中に眠っていた、もっと感覚的な部分が刺激されるのを感じた。彼女が、美術館で一枚の絵画を前に、感情豊かにその美しさを語る姿を見るたびに、俺の心は揺さぶられた。

「加藤さん、この色彩の組み合わせ、見てください。なんて……なんて美しいんでしょう」

彼女は、絵画に吸い込まれるように瞳を輝かせ、まるでその絵画の魂と対話しているかのようだった。俺は、彼女の言葉を聞きながら、絵画そのものよりも、その絵画を見つめる綾乃さんの横顔に、吸い寄せられるように見入っていた。透き通るような白い肌。柔らかな曲線を描く首筋。そして、しなやかに伸びた指先が、無意識に顎に触れる仕草。その全てが、俺の理性では抑えきれない、官能的な衝動を掻き立てた。

ある日、美術館で絵画を鑑賞している最中、ふと彼女が、俺の腕に触れた。

「加藤さん、この画家のタッチ、本当に繊細で……」

触れたのは、ほんの数秒のことだった。それでも、俺の腕に伝わった彼女の肌の温かさ、そして、薄手のニット越しに感じた柔らかな感触は、俺の全身に熱を奔らせた。心臓がドクン、と大きく鳴り、まるで体が痺れたかのような感覚に陥った。俺は、その瞬間、彼女の全てに触れたいという、抑えきれない欲望に駆られていた。

「ええ、本当に……そうですね」

俺は、精一杯平静を装って答えるのがやっとだった。彼女は、俺の動揺に気づくことなく、再び絵画の世界へと没入している。しかし、俺の脳裏には、先ほどの肌の触れ合いが、鮮明な残像として焼き付いていた。

その日から、俺は、綾乃さんの「触れる距離」を意識するようになった。隣を歩く時、カフェで向かい合って座る時、彼女との距離が、俺の心を大きく揺さぶった。彼女の、ほんのわずかな仕草。髪が風に揺れるたびに香る、シャンプーの甘い匂い。それら全てが、俺の五感を刺激し、彼女への想いを募らせていった。

特に、彼女の髪が俺の頬をかすめる瞬間。あるいは、会計書類を広げた俺の横で、彼女がコーヒーカップに手を伸ばし、その指先が俺の指先に、ほんのわずかに触れる瞬間。そんな、些細な触れ合いがあるたびに、俺の心臓は激しく高鳴り、全身の血が、一気に熱くなるのを感じた。

ある休日、俺たちは水族館へ行った。薄暗い水槽の中を、色とりどりの魚たちがゆらゆらと泳いでいる。幻想的な光景の中、綾乃さんが、ふいに俺の隣に、そっと寄り添った。

「加藤さん、見てください、あの魚……すごく綺麗ですね」

彼女の吐息が、俺の耳元をくすぐる。その声は、水槽の光に照らされて、どこか神秘的に響いた。俺の肩に、彼女の柔らかな腕が触れている。その感覚が、俺の体を締め付け、呼吸が浅くなる。理性とは裏腹に、俺の体は、彼女を求めるように、自然と彼女の方向へと傾いていた。

「ええ……本当に」

俺は、魚たちを見るふりをしながら、ちらりと彼女の横顔を盗み見た。水槽の青い光が、彼女の白い肌を淡く照らし出し、その横顔は、まるで絵画のように美しかった。俺の視線は、彼女の柔らかな唇に吸い寄せられた。その唇が、どんな感触を持っているのか。どんな甘い吐息を漏らすのか。想像するだけで、俺の喉は乾ききった。

水族館を出た後も、俺の心は高揚したままだった。彼女との、わずかな身体的な触れ合いが、俺の心と体に、これほどまでに大きな影響を与えるとは。それは、まるで抗えない引力のように、俺の全てを彼女へと引き寄せていく。

俺たちは、デートを重ねるごとに、お互いの日常に深く溶け込んでいった。お互いの仕事の悩みを聞き、休日は一緒に過ごし、小さな幸せを分かち合う。彼女の存在は、俺の生活に、今までになかった温かさと、潤いを与えてくれた。一人で過ごす部屋の空虚さは、いつの間にか消え失せていた。

ある日の夜、俺たちは、公園のベンチに並んで座っていた。街灯の明かりが、木々の間から漏れ、地面に不規則な影を落としている。ひんやりとした夜風が、俺たちの間を吹き抜けていく。

「加藤さん、最近、すごく楽しいです。こんなに気が合う人に出会えるなんて、思ってもみませんでした」

綾乃さんが、ふと呟いた。その声は、どこか切なさを帯びているように聞こえた。

「俺もですよ、綾乃さん。綾乃さんといると、心が安らぐんです。なんていうか……素の自分でいられるというか」

俺は、心からの言葉を口にした。彼女が隣にいるだけで、俺は、日々の喧騒から解放され、本当の自分に戻れるような気がした。

ふと、俺は、彼女の顔を見た。夜の闇に浮かび上がる彼女の横顔は、昼間とは違う、どこか儚げな美しさを纏っていた。その瞳の奥には、何かを求めるような、微かな光が宿っているように見えた。

俺は、無意識のうちに、彼女の手へと視線を向けた。彼女の指先が、そっとベンチの座面をなぞっている。その動きは、どこか不安を抱えているようにも見えた。俺は、その手を、握りしめたい衝動に駆られた。彼女の、その華奢な指を、俺の掌で包み込みたい。

「綾乃さん……」

俺は、静かに彼女の名前を呼んだ。彼女が、ゆっくりと俺の方を向く。俺の視線は、彼女の瞳から、その唇へと移っていった。

「あの……」

言葉が、喉の奥に詰まる。何を言えばいい?この、募り続ける想いを、どう伝えればいい?俺の心臓は、激しく脈打っていた。まるで、初めて恋をした少年のような、甘く、切ない痛みだ。

彼女の瞳が、少しだけ潤んでいるように見えた。その視線が、俺の心を貫く。彼女もまた、何かを求めている。俺と同じように、この関係を、もっと深く進めたいと願っている。そう、直感的に感じた。

俺は、意を決して、彼女の手へと手を伸ばした。震える指先が、彼女の手に触れる。ひんやりとした夜の空気とは裏腹に、彼女の手は、驚くほど温かかった。俺は、そっと、彼女の指を絡め取るように、その手を握りしめた。

「っ……」

綾乃さんの体が、微かに震えた。彼女の指先が、俺の指に、ぎゅっと力を込めてくる。その小さな仕草が、俺の心に、言いようのない喜びと、そして、もっと深く彼女に触れたいという、抑えきれない衝動を掻き立てた。

俺の掌に伝わる、彼女の柔らかな手のひらの感触。その小さな温かさが、俺の全身に、熱い血潮を巡らせていく。俺は、彼女の手を、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと握りしめた。

「綾乃さん……」

俺は、もう一度、彼女の名前を呼んだ。その声は、先ほどよりも、ずっと甘く、そして、どこか切なさを帯びていた。彼女の瞳が、俺の目を見つめ返す。その瞳の奥には、俺と同じように、熱く燃え盛る感情が宿っているように見えた。

「加藤さん……」

彼女の声も、かすかに震えていた。俺は、握りしめた手に、さらに力を込めた。彼女の指が、俺の指に、しっかりと絡みつく。このまま、時間が止まってしまえばいいのに。この、温かさと、この、高鳴る鼓動が、永遠に続いて欲しい。

俺は、ゆっくりと、彼女の顔に近づいた。彼女の吐息が、俺の頬にかかる。その甘い香りが、俺の理性を麻痺させていく。俺の視線は、彼女の少し開いた唇に吸い寄せられた。

あと、数センチ。

あと、ほんの少しで、彼女の唇に触れる。俺の心臓は、激しく高鳴り、全身の血が、一気に沸騰するようだった。

その時、突然、背後から、楽しそうな子どもの声が聞こえた。

「ママ、見てー!」

俺たちは、ハッと我に返り、慌てて体勢を戻した。公園の奥から、親子連れが、楽しそうに歩いてくるのが見えた。

「……すみません」

俺は、バツが悪そうに謝った。綾乃さんも、顔を赤くして、小さく「いえ……」と呟いた。握りしめていた手は、名残惜しそうに離れた。だが、その指先には、まだ、彼女の温もりが残っているような気がした。

俺たちの間に、気まずい沈黙が流れた。しかし、その沈黙は、決して嫌なものではなかった。むしろ、これまで以上に、俺たちの距離が縮まったことを物語っているようだった。

「あの……加藤さん」

綾乃さんが、はにかむように俺の顔を見た。その瞳は、先ほどよりも、ずっと甘く、そして、何かを期待しているような光を宿している。

「次、会う時は……」

彼女は、少し言葉を詰まらせて、そして、顔を赤らめながら、小さな声で言った。

「……もう少し、静かな場所にしませんか?」

その言葉に、俺は思わず、フッと笑ってしまった。そして、彼女の瞳を真っ直ぐ見つめ、力強く頷いた。

「はい。次は、どこか、二人きりになれる場所にしましょう」

俺の言葉に、彼女は、安心したように、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、夜の闇の中で、ひときわ輝いて見えた。俺の胸の奥で、確かな予感が芽生えた。次こそは、彼女の唇に触れる。そして、その、甘い感触を、俺の五感の全てで、味わい尽くす。

俺は、まだ指先に残る彼女の温もりを感じながら、その夜、眠りについた。夢の中では、水槽の青い光の中で、綾乃さんが、俺の腕の中で、優しく微笑んでいた。その夢は、現実の予兆のように、俺の心を、深く、そして甘く、惑わせた。

公園での出来事以来、俺たちの関係は、さらに親密さを増していった。あの夜の、あと一歩というところで阻まれたキスは、俺の心に、より一層、綾乃さんへの強い欲求を植え付けた。電話での会話は、以前にも増して甘くなり、時には、互いの息遣いが聞こえるほどの沈黙が、長い時間続くこともあった。その沈黙は、言葉以上に、俺たちの間の距離が縮まっていることを物語っていた。

「加藤さん、週末は何をしますか?」

ある日の夜、電話越しに綾乃さんの声が聞こえる。その声は、どこか俺の誘いを待っているようにも聞こえた。

「そうですね……綾乃さんは、何か行きたいところ、ありますか?」

俺は、努めて平静を装いながら尋ねた。心の中では、すでに彼女と二人きりになれる場所を思い描いていた。

「うーん……そうですねぇ。人混みは、ちょっと疲れるかなって」

彼女の言葉に、俺の脳裏に、あの公園での出来事が蘇る。静かな場所。二人きりになれる場所。

「じゃあ、俺の家、来ませんか?」

俺は、思い切って言ってみた。一瞬の沈黙。その間に、俺の心臓は、激しく高鳴った。もし、断られたら。もし、引かれてしまったら。そんな不安が、胸をよぎる。

「……え、加藤さんのお家、ですか?」

綾乃さんの声が、少しだけ上ずっているように聞こえた。

「はい。もし、よかったらですが……ゆっくり、映画でも見ませんか?美味しいコーヒー、淹れますよ」

俺は、平静を装いつつも、精一杯の誘いをかけた。彼女が、俺の部屋に来る。その想像だけで、俺の全身は熱くなった。彼女の、その柔らかな身体が、俺の部屋に、俺のベッドに、存在する。その妄想が、俺の理性を揺さぶる。

「う、嬉しい……です。ありがとうございます、加藤さん」

彼女の声は、控えめながらも、喜びに満ちているようだった。

「じゃあ、土曜日の午後とか、どうでしょうか?」

「はい!すごく楽しみです!」

電話を切った後、俺は思わず、大きく息を吐き出した。やった。ついに、ここまで来られた。彼女を、俺のテリトリーに招き入れることができる。

翌日から、俺は、部屋の掃除に精を出した。普段は、仕事の書類で散らかり放題のデスクも、きれいに片付けた。彼女が、俺の部屋に足を踏み入れた瞬間、どんな表情をするだろうか。どんな言葉を口にするだろうか。その想像だけで、俺の胸は高鳴り、落ち着かなかった。

特に、ベッド周りは念入りに掃除した。シーツを新しいものに取り替え、枕カバーも洗濯する。彼女が、もし、このベッドに横たわることになったら。もし、この枕に、彼女の頭が埋まることになったら。そんな、甘美な妄想が、俺の脳裏を駆け巡る。

土曜日。朝から、俺はソワソワしていた。約束の時間が近づくにつれて、心臓の鼓動は、ますます激しくなる。玄関のチャイムが鳴るたびに、ビクリと体が反応した。

ピンポーン、とチャイムが鳴った時、俺は、一瞬息を止めた。来た。ついに、この時が来た。

ゆっくりとドアを開ける。そこに立っていたのは、いつものように、しかし、いつもより少しだけ緊張した面持ちの綾乃さんだった。

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