ひゅう、と風が唸る音がした。日付が変わってからとうに二時間は過ぎている。深夜二時。俺の部屋は、どこか空虚な匂いがした。広すぎるワンルームに、積み上げられた会計書類と、冷え切ったコーヒーのマグカップ。公認会計士として、ただひたすらに数字と向き合う日々。デスクに突っ伏した俺の指先が、キーボードの冷たい感触を捉えていた。カチ、カチ……。乾いた音だけが、やけに耳につく。
ふと、顔を上げた。窓の外は、真っ暗な東京の空。きらめくネオンは、この部屋の、俺の孤独とはまるで無縁の世界だ。何かが、足りない。常に目標を追いかけ、達成感を積み重ねてきたはずなのに、ここ数ヶ月、胸の奥に澱のように溜まる「寂しさ」をどうすることもできなかった。それは、満員電車に揺られる時も、クライアントとの熱い議論を交わす時も、ふとした瞬間に忍び寄っては、俺の心をじわじわと蝕んでいく。
「はぁ……」
深い溜息が、部屋の空気を震わせた。この感情に、どう向き合えばいい?友人と飲みに行くのも、休日に趣味に没頭するのも、一時しのぎにしかならない。根本的な解決にはならない、とどこかで悟っていた。誰かと、深く、繋がっていたい。心から安らげる場所が欲しい。そんな漠然とした欲求が、日増しに募っていく。
その日も、午前様で帰宅し、シャワーを浴びてベッドに倒れ込んだ。しかし、疲れているはずなのに、なかなか寝付けない。瞼の裏に、これまで出会ってきた女性たちの顔が浮かぶ。どの顔も、どこかぼんやりとしていて、決定的な「何か」が欠けていた。俺は、本気で誰かを求めていたのだろうか?
寝返りを打つ。その時、スマートフォンがベッドサイドの充電器に刺さったまま、小さく光った。何の気なしに手に取り、SNSをスクロールする。友人たちの、満ち足りた日常の投稿が目に入った。結婚、旅行、子どもの写真……。それらの眩しいきらめきが、今の俺には、遠い世界の出来事のように感じられた。
その時、ふと、広告が目に飛び込んできた。
『運命の出会いが、あなたを待っている――』
マッチングアプリの広告だった。正直なところ、これまで興味はなかった。手軽な出会い、という言葉に、どこか胡散臭さを感じていたのだ。しかし、今の俺には、藁にもすがる思いがあった。この寂しさを、どうにかしたい。この空虚な穴を、埋めたい。一瞬の逡巡の後、俺は指を滑らせ、アプリをインストールした。
登録は、驚くほど簡単だった。年齢、職業、趣味、そして自己紹介。淡々とプロフィールを入力していく中で、少しずつ、心の奥底に熱が灯っていくのを感じた。
「もしかしたら……」
淡い期待が、胸の内で小さく波打つ。
翌日、仕事の休憩時間。ランチもそこそこに、俺はアプリを開いた。ずらりと並ぶ女性たちの顔写真。どれもこれも、綺麗に着飾った「見せる顔」ばかりだ。正直なところ、ピンとくる相手はいない。スクロール、スクロール……。指が疲れてきた頃、一枚のプロフィール写真が目に留まった。
山本綾乃、27歳、OL。
彼女の写真は、派手な加工もなく、ごく自然な笑顔だった。だが、その瞳の奥には、どこか落ち着いた光が宿っているように見えた。そして、プロフィールを読み進めていく。趣味は読書と美術館巡り、好きな音楽はクラシック、休日はカフェで過ごすのが好き――驚くほど、俺と共通点が多かった。
「まさか……」
まるで、鏡を見ているようだった。俺もまた、休日は静かなカフェで本を読むのが好きだし、美術館には一人で足を運ぶこともある。仕事柄、思考を整理するためにはクラシック音楽が欠かせない。こんなにも、自分と価値観が一致する相手が、この世にいるなんて。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。これは、期待なのか、それとも、ただの気の迷いなのか。いや、違う。この胸のざわめきは、今まで感じたことのない種類の、特別な何かだ。
迷わず、「いいね!」を送った。そして、メッセージを作成する。どんな言葉を紡げば、彼女に俺の真剣さが伝わるだろう?ありきたりな挨拶は避けたい。そう考えていると、脳裏に、彼女の笑顔が浮かんだ。あの、穏やかな瞳。
『初めまして。加藤勇樹と申します。山本さんのプロフィールを拝見して、驚きました。趣味や好きなものが、僕と驚くほど共通していて……思わずメッセージを送ってしまいました。もしよろしければ、少しお話してみませんか?』
送信ボタンを押す指が、かすかに震えた。まるで、初めて告白する中学生のような気分だった。スマートフォンの画面を凝視する。既読はつかない。返信も来ない。焦燥感と、微かな後悔が入り混じった感情が、胸の内で渦巻く。断られたら、どうしよう。また、この寂しさに逆戻りか?
その日の仕事は、全く手につかなかった。頭の中は、綾乃さんのことでいっぱいだ。会計監査の報告書も、税務申告の最終チェックも、まるで他人事のようにぼんやりとしか頭に入ってこない。デスクに座りながらも、何度もスマートフォンの画面を確認する。しかし、期待は裏切られ続けた。
退勤後、重い足取りで最寄りの駅へと向かう。都会の喧騒が、一層俺の孤独を際立たせるようだった。こんなことなら、最初から期待などしなければよかった。マッチングアプリなんて、やはりまやかしだったんだ。
その時、ポケットの中のスマートフォンが、ブルッと震えた。心臓が、喉まで飛び出しそうになった。
画面を見ると、「山本綾乃さんからメッセージが届きました」の文字。
「……っ!」
思わず、人通りの多い駅のホームで立ち止まってしまった。周りの視線など気にならない。逸る気持ちを抑えながら、メッセージを開く。
『加藤さん、初めまして!山本綾乃です。メッセージありがとうございます!私も加藤さんのプロフィールを拝見して、すごく驚きました!こんなに共通点が多い方と出会えるなんて、本当に奇跡みたいです。ぜひ、お話してみたいです!』
そこには、絵文字がちりばめられた、弾むようなメッセージがあった。安堵と、喜びが、同時に押し寄せる。まるで、凍り付いていた心が、ゆっくりと溶けていくような感覚だった。
「よっしゃあああ!」
思わず、ガッツポーズをした。周りの乗客が、一瞬怪訝な顔で俺を見たが、そんなことはどうでもよかった。俺の頬は、間違いなく緩みきっていた。
その夜から、俺と綾乃さんのメッセージのやり取りが始まった。
最初の数日は、お互いの休日の過ごし方や、好きな映画の話など、当たり障りのない話題が続いた。しかし、すぐにそれだけでは物足りなくなった。彼女のメッセージは、いつも丁寧で、それでいてどこかユーモアのセンスが光っていた。例えば、ある日、俺が「最近、仕事が忙しくて、全然読書ができてないんです」と送ると、彼女はすぐにこう返してきた。
『分かります!私も最近は、本を開くとそのまま夢の中へ……(笑)。でも、加藤さんのおすすめの本があったら、ぜひ教えてくださいね!眠気覚ましに読みます!』
俺は思わず、フッと笑ってしまった。彼女の、飾らない人柄が、メッセージの文面からじんわりと伝わってくる。まるで、長年の友人と会話しているかのように、自然と心が解れていくのを感じた。
そして、俺もまた、彼女の聡明さに惹かれていった。例えば、とあるニュース記事について意見を交わした時のことだ。俺が一般的な見解を述べると、彼女はすぐに、多角的な視点からその問題の本質を捉え、俺の想像を超える深い洞察を披露した。
『私は、あの問題は表面的な部分だけではなく、その背景にある社会構造にも目を向ける必要があると思うんです。例えば……』
そのメッセージを読んだ時、俺の胸は、言いようのない高揚感に満たされた。ああ、この人は、ただ可愛いだけの女性じゃない。自分の頭でしっかりと考え、意見を持っている。俺が普段、仕事で触れているような、ロジカルで知的な会話が、こんなにも心地よく感じられるなんて。
メッセージの頻度は、日を追うごとに増えていった。朝、目が覚めるとすぐに彼女からの「おはよう」のメッセージが届いている。仕事の休憩時間には、昨夜の続きのような会話が繰り広げられ、夜は、一日の出来事を共有し、お互いの悩みを打ち明けるようになった。
ある晩、俺は仕事で大きなミスをしてしまい、ひどく落ち込んでいた。誰にも言いたくなかったが、つい、綾乃さんにそのことを打ち明けてしまった。
『今日は最悪な一日でした……。大きなミスをしてしまって。自分に自信がなくなってきました』
送信ボタンを押した後、すぐに後悔した。こんなネガティブな話を、まだ顔も見たことのない相手に聞かせるなんて。きっと、引かれてしまうだろう。
しかし、すぐに彼女から返信が来た。
『加藤さん、大丈夫ですか?お疲れ様でした。きっと、今の加藤さんはすごく頑張ったから、その反動で少し疲れてるだけですよ。どんなに頑張っていても、人間だからミスはあります。私も、同じような経験がたくさんありますから。もしよかったら、少しだけ電話しませんか?声を聞かせてもらえたら、少しは気が晴れるかもしれません』
そのメッセージを読んだ瞬間、俺の目頭が熱くなった。温かさ、優しさ、そして、深い理解。画面越しに、彼女の温かい手が、俺の心にそっと触れてくれたような気がした。
「……っ、山本さん……」
すぐに、電話をかけた。呼び出し音が鳴る間、鼓動が激しくなる。そして、スピーカーから聞こえてきた彼女の声は、メッセージの文字から想像していたよりも、ずっと柔らかく、心地よかった。
「もしもし、加藤さん?」
「あ、山本さん……」
たったそれだけの言葉なのに、不思議と心が安らいだ。俺は、今日あった出来事を、彼女に包み隠さず話した。彼女は、ただ黙って、俺の話を聞いてくれた。時には、優しい相槌を打ちながら。
「うん、うん……そうだったんですね。加藤さん、本当に頑張り屋さんだから。きっと、誰よりも自分を責めてしまうんですよね」
その言葉に、俺は思わず「はい」と答えた。彼女は、俺の性格を、まるで長年知っていたかのように理解してくれていた。そのことに、驚きと同時に、深い感動を覚えた。
一時間近く話し込んだだろうか。電話を切る頃には、俺の心はすっかり軽くなっていた。
「山本さん、本当にありがとうございました。なんだか、すごく心が楽になりました」
「いいえ、そんな。私の方こそ、加藤さんの話を聞けてよかったです。また何かあったら、いつでも話してくださいね」
その日以来、俺と綾乃さんは、毎日電話で話すようになった。寝る前の数十分、お互いの日常を共有し、たわいもない話をしたり、時には真剣な悩みを打ち明けたり。画面越しの文字だけでは感じ取れなかった、声のトーンや、話し方の癖、小さな吐息一つ一つが、俺の心にじんわりと染み渡っていく。
特に、彼女がフッと小さく笑う声。俺の話に、柔らかく相槌を打つ時の、少し甘い声。それらが、俺の脳裏に焼き付いて離れない。夜、ベッドに横になり、目を閉じると、彼女の声が耳元で囁くように響く。
『加藤さん、今日もお疲れ様でした』
ああ、早く会いたい。この声の持ち主と、実際に会って話してみたい。彼女の瞳の奥に、どんな光が宿っているのか。どんな表情で、笑うのだろう。俺の心は、彼女への未練がましい執着と、彼女の身体に触れたいという、抑えきれない欲求で満たされていった。
会うたびに、彼女は俺の心を深く揺さぶる。彼女の聡明さに、俺はただただ感銘を受け、そしてその奥に隠された、どこか危ういほどの脆さに、俺は保護欲を掻き立てられた。
俺たちは、会ったこともないのに、まるで長年の恋人同士のように、お互いの日常に深く溶け込んでいた。マッチングアプリという、ある意味で無機質なツールが、俺たちの心を、こんなにも深く繋ぎ止めている。それは、まさに現代の奇跡だった。
そして、数週間が経ったある日。いつものように電話で話している最中、俺は意を決して、彼女に尋ねた。
「あの……山本さん」
「はい、加藤さん?」
彼女の少し首を傾げたような、優しい声が聞こえる。
「もし、よかったら……一度、お会いできませんか?」
俺の心臓は、激しく脈打った。電話口の向こうで、一瞬の沈黙が訪れる。その数秒が、永遠のように感じられた。もし、ここで断られたら……。俺は、もう二度と、この寂しさから逃れることはできないだろう。そんな、根拠のない絶望感が、胸に広がる。
「はい……。ぜひ、お会いしたいです、加藤さん」
彼女の声は、少しだけ震えているように聞こえた。それは、緊張からなのか、それとも、同じような期待を抱いているからなのか。俺には、どちらとも判断できなかった。だが、その声が、俺の不安を一瞬にして吹き飛ばした。
「ありがとうございます、山本さん!」
俺の声も、弾んでいた。抑えきれない喜びが、声に乗って伝わっただろうか。
「じゃあ、来週末とか、どうでしょうか?お昼に、カフェとかで」
「はい、ぜひ!すごく楽しみです!」
電話を切った後も、俺の興奮は冷めやらなかった。顔の筋肉が、勝手に緩んでいるのがわかる。早く、会いたい。彼女の、その声の持ち主と。そして、彼女の、その声の奥に隠された、本当の表情に触れたい。
俺の指先が、スマートフォンの画面を撫でる。そこに表示されているのは、彼女のプロフィール写真。自然な笑顔。そして、落ち着いた瞳。だが、その写真の奥には、もっと多くの魅力が隠されているはずだ。そのすべてを、俺は、この目で、この手で、確かめたい。
翌日から、俺は仕事にも身が入らなかった。常に、彼女との初デートのことばかり考えている。どんな服を着ていこうか。どんな話をしようか。会った時、なんて声をかけようか。まるで、初めての恋に落ちた少年のような気分だった。
彼女へのメッセージも、今まで以上に慎重になった。誤解されるような言葉は避けたい。彼女に、嫌われたくない。その気持ちが、俺の行動を支配していた。
そして、約束の週末がやってきた。
当日の朝、俺は何度も鏡の前で服装をチェックした。カジュアルすぎず、かといって堅苦しすぎないように。清潔感を重視し、何度も髪型を整える。心臓の鼓動が、ドクドクと大きく響いている。
待ち合わせのカフェは、都心のオフィス街から少し離れた、落ち着いた雰囲気の場所を選んだ。窓から差し込む柔らかな日差しが、店内に満ちている。俺は、約束の時間の十五分前には到着し、店の隅の席に座って、彼女が来るのを待った。
視線は、店の入り口に釘付けになる。通り過ぎる人々の顔を、一人一人確認していく。まだか。まだ来ないのか。焦燥感と、高揚感が入り混じった感情が、胸の内で渦巻く。
チリン、と店のドアのベルが鳴った。
俺は、ハッと顔を上げた。
そこに立っていたのは、一人の女性。

白いブラウスに、柔らかな素材のスカート。肩まで伸びた髪は、ふわりと風に揺れている。そして、その顔を見た瞬間、俺の全身に、熱い電流が走った。
「……綾乃、さん……」
画面越しに想像していた通りの、いや、それ以上に魅力的な女性が、そこに立っていた。彼女の瞳は、写真よりもずっと大きく、澄んでいた。そして、その口元には、ふわりと優しい笑みが浮かんでいる。
彼女もまた、俺に気づいたようだった。一瞬、目を見開いて、そして、はにかむように微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、俺の胸に、熱いものがこみ上げてきた。それは、今まで感じたことのない、運命的な感覚だった。