バタン!
静寂を切り裂く、荒々しい開閉音。
隣室から響くその衝撃に、
俺の心臓は不吉な鼓動を刻んだ。
それは単なる騒音ではない。
薄い壁一枚を隔てた向こう側で、愛しい人が苦難に直面している確かな証左だった。
あの夜以来、りこさんと俺は一線を越えてしまった。
甘く、禁断の果実のような時間だった。
彼女の吐息、肌の温もり、漏れ出た声……そのすべてが俺の脳裏に焼き付いている。
しかし同時に、あの夜、夫の怒号と共に聞こえてきた「不貞」や「代償」といった言葉が、常に俺たちの間に重く横たわっていた。
夫の帰宅はますます遅くなり、その振る舞いは凶暴さを増していった。
泥酔して彼女をなじる声は、俺の部屋の隅々にまで突き刺さるように響く。
そのたびに俺は、すぐ隣にいる彼女を救えない無力感に苛まれ、拳を握りしめた。
手のひらに食い込む爪の痛みだけが、かろうじて自分を繋ぎ止めていた。
ある夜、かつてない激しい衝撃音が響いた。
何かが倒れる鈍い音に続き、
「やめて!」
彼女の悲痛な叫びが聞こえる。
衝動的に俺は立ち上がり、部屋を飛び出した。
彼女のドアの前で立ち尽くし、耳を澄ます。
漏れ聞こえるのは獣のような罵声と、
硬質なものが砕ける音、
そして消え入りそうなりこさんの嗚咽。
「お願い……もう、やめて……」
その声が耳を貫いた瞬間、迷いは消えた。
介入すれば事態をさらに悪化させるかもしれない。
だが、愛する人が危機に瀕している状況で、そんな理屈は無意味だった。
扉に手をかけようとした瞬間、
大家の家の灯りがついた。
咄嗟に物陰に身を隠すと、
心配そうな表情の奥さんが出てくるのが見えた。
奥さんは異変を察し、意を決したように部屋のインターホンを鳴らした。
張り詰めた空気を、無機質な電子音が切り裂く。
一瞬の静寂の後、乱暴にドアが開いた。
「うるせえ! 何だよ!」
夫の濁った声が響く。
奥さんは毅然とした声で応じた。
「夜分に失礼します。大きな音がしたと近所から連絡が……大丈夫ですか?」
夫は威嚇するように吐き捨てた。
「関係ねえだろ! 引っ込んでろ、ババア!」
壁が震えるほどの音を立ててドアが閉められ、
その直後に彼女の小さな悲鳴が聞こえた気がした。
奥さんが困惑しながら引き上げるのを見届け、なおも様子を伺っていると、再び激しい音とともに夫が部屋を飛び出してきた。
彼は駐車場で車を急発進させ、夜の闇へと消えていった。
嵐が去ったことを確信した俺は、小さく彼女の部屋のドアをノックした。
「……りこさん、俺です。修太です」
静寂の後、ゆっくりと、震える手つきで扉が開いた。
そこにいたのは、涙で顔を腫らし、
今にも崩れ落ちそうなりこさんの姿だった。
「……修太君……」
俺は何も言わず、彼女を強く抱きしめた。
腕の中で小刻みに震える華奢な肩。
彼女から漂う柑橘の香りと涙の匂いが混じり合い、切なさが胸を締め付ける。
「大丈夫……もう、大丈夫ですから。俺がいますから」
彼女は俺の胸に顔を埋め、
子供のように泣き続けた。
その温かい涙が、
服を通して肌に熱く染み込んでいく。
彼女の体には、突き飛ばされた際にテーブルの角で負った痛々しい傷痕があった。
夫は浮気の一件から理性を失い、
彼女を傷つけるようになっていたのだ。
大家さんの介入がなければ、
さらなる惨劇が起きていたかもしれない。
限界を迎えた彼女の心身を想い、
俺の怒りは静かな決意へと変わった。
俺は、りこさんを自分の部屋へ連れて行き、
傷の手当てをしながら、心に誓う。
(りこさんは必ず俺が守る。この地獄から、俺の手で救い出す……!)
俺のベッドで眠りについた彼女の寝顔は、
驚くほど無垢だった。
頬に残る涙の跡を指先でそっと拭いながら、俺は彼女の傍らに寄り添い続けた。
翌日、大家さんの奥さんがりこさんの様子を見に訪ねてくれた。
奥さんはりこさんの傷ついた姿を見て絶句し、背後にある深刻な事情を知るや、
毅然とした態度で警察への相談も辞さないと申し出てくれた。
りこさんは当初、
家庭内の問題を伏せようとしていたが、
奥さんの慈愛に満ちた眼差しに触れ、
堰を切ったように真実を話し始めた。
これまでの夫の横暴、
突きつけられた不当な条件、
そして離婚への決意……。
彼女は嗚咽を漏らしながら、
胸の奥に溜め込んでいた苦しみを
すべて吐き出した。
大家さんはその言葉を一つひとつ丁寧に拾い上げ、親身になって寄り添ってくれた。
その温もりは、絶望の淵にいたりこさんの心を静かに溶かしていった。
さらに、自治体の相談窓口の活用やこれからの生活の事など、生活を立て直すための具体的な道筋を提示してくれた。
大家さん夫婦は、彼女が危難を逃れるための支援を、まるで自分たちの家族のことのように献身的に行ってくれたのだ。
事態の深刻化を察してか、
夫はそれ以上りこさんに接触を図ることは
なくなった。
大家さん夫婦と俺の支えを受け、
彼女は離婚に向けた一歩を踏み出した。
金銭面での協議は難航したものの、
弁護士の助力を得て半年後、
正式に離婚が成立。
経済的な苦境は続いていたが、
支配という重石から解放されたことは、
彼女にとって再生への大きな転換点となった。
以前のような強張りが消え、
彼女の頬に柔らかな色が戻ったのを見て、
俺は心の底から安堵した。
新生活への準備が整うまで、
りこさんは俺の部屋に身を寄せることになった。
大家さん夫婦も事情を汲み、
「一時的な同居なら構わない」と
温かい言葉で背中を押してくれた。
彼らの配慮がなければ、
彼女は行き場を失っていただろう。
こうして、俺の狭い部屋での共同生活が始まった。
男女の二人暮らしということもあり、
最初は互いに遠慮がちだったが、
同じ屋根の下で過ごす時間は
二人の距離を急速に埋めていった。
夜、隣から聞こえてくる
彼女の安らかな寝息に、
俺は深い充足感とともに、
どこか背徳的な疼きが混じった
複雑な感情を抱いた。
昼は学業、夜はバーでの労働。
楽な生活ではなかったが、
部屋へ帰れば
「おかえり、修太君」
という彼女の声が待っている。
それだけで、一日の疲労は霧散した。
りこさんも、安穏とした日々のなかで
本来の明るさを取り戻していった。
二人で近所のスーパーへ食材を買いに行き、狭い台所で談笑しながら夕飯をこしらえる。
他愛もないTV番組を見て笑い合う。
そんなささやかな日常こそが、
何物にも代えがたい宝物だった。
彼女の笑顔を見るたび、
俺の胸には温かな充足感が広がった。
数ヶ月後、彼女は日中の仕事を見つけ、
自立に向けて懸命に歩み始めた。
大家さん夫婦はその後も、
採れたての野菜を届けてくれたり
温かい声をかけてくれたりと、
俺たちを家族のように見守り続けてくれた。
彼らの存在は、
この街で懸命に生きる俺たちにとって
最大の支えだった。
俺たちの関係は、もはや単なる
同居人の域を超えていた。
週末に並んで歩く商店街、
夜遅くまで語り明かす静かな時間。
その光景は、端から見れば
仲睦まじい夫婦そのものだった。
大家さんの奥さんに
「仲良くやってる?」と
声をかけられると気恥ずかしかったが、
周囲の人々が俺たちの在り方を
自然に受け入れてくれている事実に、
俺は深い喜びを感じていた。
そして、よく晴れた午後のこと。
公園を散歩していたりこさんが、
ふと立ち止まって俺を見た。
「ねぇ、修太。
このままずっと一緒にいない?」
その言葉は唐突で、
けれど驚くほど自然に響いた。
俺の鼓動が跳ね上がる。
木漏れ日を浴びる彼女の瞳は、
真っ直ぐに俺を射抜いていた。
「俺も、りこさんとずっと一緒にいたい……。これからも、ずっと」
俺は彼女を抱き寄せた。
ベンチに腰を下ろしたまま、
壊れ物を扱うように…
けれど、二度と離さないという決意を込めて強く抱きしめる。
腕の中に収まる彼女の柔らかな温もりと、
安堵に満ちた吐息が俺の耳をくすぐった。
「修太……ありがとう……」
涙声で囁くりこさんの肩が微かに震える。
「泣かないで。これからも、ずっと一緒だよ」
背中を優しく撫でると、
彼女は小さく、けれど確かに頷いた。
夕闇が街をオレンジ色に染める頃、
俺たちは手を繋いで家路についた。
部屋のドアを開け、
見慣れた二人の空間に足を踏み入れた時、
俺たちの新しい物語が、
この瞬間から真の意味で始まるのだという
実感が熱く込み上げてきた。