初めてのデートは、まるで夢のように過ぎ去った。カフェの温かい光と、里奈の優しい笑顔。メッセージのやり取りで感じていた彼女の魅力が、目の前で何倍にも増幅されて俺の心に響いた。俺の灰色だった日常に、鮮やかな色彩が加わったような感覚だった。駅で別れた後も、里奈の残像が俺の視界に焼き付いて離れない。スマホの画面を見つめ、彼女からの
「今日はありがとうございました!とても楽しい時間でした」
というメッセージに、俺はすぐに返信した。「こちらこそ、ありがとうございました。またすぐにでもお会いしたいです」という言葉には、俺の偽らざる本心が込められていた。
その後、俺たちは週末ごとにデートを重ねるようになった。二度目のデートは、里奈が提案してくれた、少し郊外にある美術館だった。モダンな建築と、豊かな緑に囲まれたその場所は、俺にとって新鮮な体験だった。里奈は、一つ一つの絵画や彫刻の前で足を止め、じっと見つめる。その瞳は、まるで子供のように純粋で、俺はそんな彼女の横顔をじっと見つめていた。
「この絵、色彩がすごく綺麗ですね。見ていると、心が落ち着くんです」
里奈は、そう言って微笑んだ。彼女の感性は、俺の無骨な日常にはない、繊細なものだった。美術に対する知識は疎かったが、里奈の解説を聞いていると、俺の心にもじんわりと温かいものが広がっていくのを感じた。絵画鑑賞の後、美術館に併設されたカフェで、二人でサンドイッチを食べた。窓から見える新緑がまぶしく、里奈の白いブラウスに映えていた。
三度目のデートは、俺が選んだ都心の水族館だった。暗い館内を進むたびに、水槽の中を優雅に泳ぐ魚たちが、七色の光に照らされて幻想的な輝きを放つ。大きな水槽の前で、里奈は「わぁ…綺麗」と、目を輝かせた。その純粋な反応に、俺の心は温かくなった。
「この大きなエイ、まるで空を飛んでいるみたいですね」
里奈は、水槽に顔を近づけて、そう言った。その無邪気な表情は、普段の落ち着いた彼女とはまた違う一面で、俺はますます彼女に惹かれていった。暗闇の中で、隣に立つ里奈の柔らかな肩が、俺の腕に触れるたびに、電流のようなものが走る。水槽の青い光が、里奈の横顔を神秘的に照らし出し、俺の男としての本能が、小さく疼くのを感じた。
デートを重ねるごとに、俺たちはさらに深くお互いを知るようになった。休日の美術館巡り、美味しいレストラン探し、時には何の目的もなく公園を散歩する。特別なことは何もないけれど、里奈と過ごす時間は、俺にとって何よりもかけがえのないものになっていた。彼女の笑顔を見るたび、俺の心は温かい光に満たされる。それはまるで、乾いた土に水が染み渡るように、俺の心を潤していった。彼女の存在は、俺の生活に、これまでになかった彩りを与えてくれた。モノクロだった日常が、鮮やかな色で塗り替えられていくようだった。
二人で過ごす時間が増えるにつれて、俺たちは表面的な会話だけでなく、より深い話題に触れるようになった。将来のこと、家族のこと、仕事のこと。互いの価値観や考え方を共有することで、二人の絆は一層深まっていった。
「康介さんは、将来どんな家庭を築きたいですか?」
ある日の帰り道、夕焼けに染まる空の下、里奈がそう尋ねた。不意の質問に、俺は少し戸惑った。これまで真剣に考えたことのなかった「将来」という言葉が、目の前の里奈と結びついて、具体的なイメージとして俺の心に広がる。オレンジ色の空が、まるで二人の未来を祝福しているかのように見えた。隣を歩く里奈の横顔が、いつもより輝いて見えた。
「そうだな…温かくて、いつも笑い声の絶えない家庭がいいな。あと、里奈さんみたいに料理上手な人がいてくれたら最高だけど」
俺が少し照れながら答えると、里奈は「ふふ、私も料理は好きですよ。康介さんが美味しいって言ってくれるなら、頑張っちゃいます」と、はにかんだ。その笑顔に、俺の心はキュッと締め付けられた。彼女の家庭的な魅力が、俺の男としての欲求を刺激する。この笑顔が、俺の家庭の中心にあったら、どんなに幸せだろうか。想像するだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。里奈の言葉は、まるで魔法のように、俺の心に温かい灯をともしてくれた。
里奈は、堅実な金銭感覚の持ち主だった。無駄遣いはせず、将来のために貯蓄をすることもしっかり考えている。
「お金のことは、やっぱりしっかりしないとね。将来のためにも、無理のない範囲で計画的に」
里奈の言葉は、いつも俺の仕事に対する真摯な姿勢と、将来を見据えた計画性に、安心感を与えてくれた。彼女の金銭感覚は、銀行員である俺にとっても非常に信頼できるものだった。俺たちは、将来のライフプランについて、時には真剣に、時には冗談を交えながら話し合った。住宅ローン、子供の教育費、老後の資金。具体的な数字を口にするたび、二人の未来が、少しずつ形を成していくような感覚だった。それは、これまで一人では決して描けなかった、明るく具体的な未来図だった。
そして、何よりも俺が惹かれたのは、里奈の「家族を大切にする姿勢」だった。実家の話をする時の彼女の表情は、いつも優しさに満ちていた。
「お父さんもお母さんも、すごく心配性で。でも、それが愛情だって分かってるから、ちゃんと連絡するようにしてるんです」
里奈の声は、家族への愛情に満ちていた。俺の家族の話も、里奈は真剣に耳を傾けてくれた。俺の母親が作った料理のレシピを教えてほしいと言われた時には、少し驚いたけれど、その細やかな気遣いが嬉しかった。まるで、彼女が俺の家族の一員になろうとしているかのように感じられた。その優しさに触れるたび、俺の心には、これまで感じたことのない穏やかな幸福感が広がっていった。
もちろん、お互いに完璧な人間ではない。俺は時々、仕事に没頭しすぎて周りが見えなくなることがあるし、里奈も少しばかり優柔不断なところがあった。しかし、俺たちはそれぞれの欠点も受け入れ、支え合うことを自然と学んでいった。それは、まるで二つのパズルのピースが、少しずつ形を合わせていくかのように。
「康介さん、最近ちょっと疲れてるんじゃない?目の下のクマが少し濃くなってるよ」
ある日、里奈は俺の顔を覗き込み、優しい声でそう言った。彼女の指先が、俺の目の下をそっと撫でる。その温かさに、俺は思わず目を閉じた。
「そうかな…ちょっと仕事が立て込んでて」
俺は、正直に答えた。里奈には、なぜか隠し事をすることができなかった。
「無理しすぎないでね。康介さんが倒れちゃったら、私が心配しちゃうから」

里奈の言葉は、俺の心に深く染み渡った。そのたびに、俺の心は温かさに包まれた。彼女の存在は、俺の生活に、これまでになかった彩りを与えてくれた。モノクロだった日常が、鮮やかな色で塗り替えられていくようだった。里奈の温かい眼差しが、俺の心に安らぎを与えてくれた。彼女の存在は、俺にとって、まるで呼吸をするかのように、必要不可欠なものになっていた。
そうして、俺たちの関係は確かなものへと育っていった。週末を一緒に過ごすのは当たり前になり、時には仕事の愚痴を聞いてもらったり、ささやかな悩みを打ち明けたりするようになった。里奈の優しい眼差しと、包み込むような温かさに触れるたび、俺は心の奥底から癒されるのを感じた。まるで、長い旅の果てに、ようやく辿り着いた安息の地のような感覚だった。彼女の腕の中にいると、どんな不安も、どんな疲れも、すべて消え去るような気がした。俺たちは、お互いの存在が、日々の生活の中でいかに大きな支えになっているかを、肌で感じていた。
ある日のことだった。いつものようにデスクで業務に集中していると、内線が鳴った。上司から呼び出され、俺は緊張しながら席を立った。
「矢野、悪いが来週から3日間、九州の店舗に行ってきてもらう。急で申し訳ないが、お前しかいない」
上司の口から出た言葉に、俺は思わず息を呑んだ。突然の出張命令に、俺は「はい」としか言えなかった。上司の顔には、有無を言わさぬ厳しい表情が浮かんでいた。俺の心は、瞬く間に沈み込んだ。里奈に会えない3日間。それが、こんなにも寂しく感じるものだとは、自分でも驚きだった。これまで、出張は単なる業務の一環でしかなかった。だが、今は違う。会えない時間が、こんなにも心を蝕むものだと、初めて知った。
その日の夜、里奈に電話で出張のことを伝えた。電話口の向こうで、里奈の声が、少しだけ沈んだのが分かった。
「そっか…3日間も会えないのは寂しいな」
里奈の声が、少しだけ沈む。その声のトーンから、彼女の寂しさが伝わってきた。俺も同じ気持ちだった。電話越しにも、彼女の唇が、小さく震えているのが見て取れた。だが、すぐに里奈は気丈に顔を上げた。電話口から聞こえる彼女の声が、少しだけ明るくなった。その瞳には、決意の光が宿っているかのようだった。
「でも、お仕事だから仕方ないよね!康介さん、頑張ってきてね!私も応援してるから!お土産、楽しみにしてるからね!」
精一杯の元気な顔で、俺を送り出してくれた里奈。その健気な姿に、俺は胸が締め付けられた。抱きしめたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえた。電話の向こうから聞こえる彼女の優しい声が、俺の耳に心地よく響く。彼女の笑顔は、まるで俺の旅路を照らす灯台のようだった。出張への不安が、少しだけ和らいだ。
「ありがとう、里奈。気をつけて行ってくるよ。お土産、楽しみにしてて」
俺は、精一杯の感謝を込めてそう言った。電話を切った後も、里奈の温かい声が、俺の耳の奥に残り続けていた。
そして、3日間の出張が始まった。普段とは違う土地での業務は、新鮮さもあったが、やはり慣れない環境は疲労を倍増させた。毎晩、ホテルに戻ると、ベッドに倒れ込むように眠りについた。しかし、眠りにつく前には必ず、里奈の顔が頭に浮かんだ。彼女は今頃、何をしているだろう。俺と同じように、俺のことを考えてくれているだろうか。そんなことを考えていると、少しだけ心が温かくなった。
出張中も、里奈とは短いメッセージのやり取りを交わした。
「今、九州の美味しいもの食べてますか?」
里奈からのメッセージは、いつも俺の心を和ませてくれた。
「まだ食べれてないけど、これから何か探してみるよ」
俺は、そんな返信をした。
「無理せず、お仕事頑張ってくださいね!康介さんが無事に帰ってきてくれるのが一番ですから」
里奈の優しい言葉が、俺の心に深く染み渡った。そのメッセージを読むたび、俺は改めて、彼女の存在の大きさを感じた。
そして、3日間の出張が終わり、新幹線で東京駅に降り立った俺は、疲れ果てていた。スーツケースを引く腕は、もう限界だった。革靴が床に吸い付くように、重い足取りで改札へと向かう。都会の喧騒が、さらに俺の疲労感を増幅させる。頭の中には、早く家に帰って休みたいという思いしかなかった。
改札を抜けると、そこに信じられない光景が広がっていた。人混みの中に、見慣れた白いシルエットがあった。一瞬、自分の目が信じられなかった。疲れと睡眠不足で、幻でも見ているのだろうか。
「康介さん!」
聞き慣れた、少しだけ弾んだ声が、俺の耳に飛び込んできた。俺はハッと顔を上げた。そこに立っていたのは、仕事に行っているはずの里奈だった。