銀行の重厚な自動ドアが、背後で「シュッ」と音を立てて閉まる。そのたびに、俺はいつも「今日も一日が終わった」と、体の奥底で小さな安堵を覚える。同時に、硬い革靴がフロアに吸い付くような、規則的な足音が響く。カツン、カツン。それは、俺の疲弊した精神に染み付いた日常のBGMだ。まるで、この音だけが、俺の存在を確かめる唯一の証であるかのように、耳の奥で反響する。
矢野康介、36歳。世間的には働き盛りの銀行員。都心の一等地にあるビルの一室で、俺は毎日、膨大な数字と向き合っている。顧客の資産運用、融資審査、リスク管理。画面に映し出される無機質な数字の羅列は、時に俺の視界を歪ませ、頭痛を誘発する。一日の大半をデスクで過ごし、休憩時間も惜しんでコーヒーを流し込む。カフェインの苦みが、唯一の現実感を俺に与えてくれる。
俺の日常は「生きる」というよりは「業務をこなす」という表現の方がしっくりくる。
朝、押し潰されそうな満員電車に揺られ、目の前に広がる隣の乗客の背広から、微かな汗の匂いがする。新聞を広げる気力もなく、ただ吊り革を握りしめている俺の手のひらには、うっすらと脂が浮いていた。会社に着けば、山積みの書類と、瞬きも許されないほどの数字の海に溺れる。顧客の顔は記号でしかなく、頭の中は常に計算と分析でパンク寸前だ。昼食はデスクでコンビニのサンドイッチを頬張り、味も感じないまま業務を再開する。パンの耳が口内に貼り付く感覚だけが、食事を終えた唯一の証だった。
そして、夜は缶ビール片手にニュースを眺め、そのまま深い眠りにつくこともなく、浅い眠りの中に沈んでいく。枕に沈む頭は重く、まるで鉛のように感じる。週末になれば、たまった疲れを消化するように、ただひたすら眠り続ける。カーテンの隙間から差し込む朝日の光が、俺の瞼を刺激する。それでも、起き上がる気力は、なかなか湧いてこない。そんなルーティンを何年も繰り返すうち、恋愛という言葉は、いつの間にか俺の辞書から消えかかっていた。胸の奥底で、何かが少しずつ、確実に枯れていくような感覚が常に付きまとっていた。それは、まるで砂漠に水をやらずに放置した植物が、ゆっくりと萎れていくような、そんな残酷な感覚だった。
周囲の友人の変化が、俺の孤独をより一層際立たせる。同僚の結婚式の二次会で、「康介もそろそろ身を固めろよ」と、やたらと陽気な声で肩を叩かれるたびに、俺は曖昧に笑って誤魔化してきた。無理に作った笑顔の裏で、心のどこかにチクリとした痛みが走る。まるで、その話題に触れることが、俺にとってのタブーであるかのように。テーブルに並べられた豪華な料理も、俺の目には霞んで見えた。乾杯のグラスがぶつかる音、賑やかな話し声。その全てが、遠い世界のことのように感じられた。
心のどこかでは、漠然とした焦りがあったのも事実だ。学生時代の友人たちが次々と結婚し、SNSのタイムラインには幸せそうな家族写真が溢れる。子供たちの屈託のない笑顔、妻の優しい眼差し、そして夫の満足げな表情。週末には、きっと子供の声が響く賑やかな食卓の風景がそこにあるのだろう。それを見るたび、俺の孤独は際立ち、胸には言いようのない空虚感が広がった。指先がスマホのガラスをなぞるたび、その冷たさが俺の心をさらに冷え込ませるようだった。彼らの投稿に「いいね」を押しながらも、俺の心はまるで深い淵に落ちていくかのような感覚に襲われた。このままではいけない。そう頭では理解しているのに、行動に移せない自分がもどかしく、情けなかった。まるで、深い泥沼に足を取られたかのように、身動きが取れない。
そんなある日の夜、仕事終わりに、行きつけの居酒屋で、旧知の友人と飲んでいた時のことだ。店の奥の、薄暗い掘りごたつ式の席。周りの喧騒が、なぜか心地よいBGMのように聞こえた。冷えたビールジョッキを握りしめ、友人の話に耳を傾けていた。
「康介、お前さ、最近どうなの?彼女とか」
友人は、少し心配そうな顔で俺を見つめた。その視線は、俺の心の奥底を見透かすかのように、深く、そして優しい。俺は、いつものように苦笑いを浮かべて、冷えたジョッキを傾けた。ビールの苦みが、俺の喉を滑り落ちていく。その苦みは、俺の人生の現状を表しているかのようだった。
「相変わらずだよ。仕事が忙しくて、そんな暇ないって」
俺の言葉は、まるで口癖のように、何の感情も伴わずに発せられた。
「またそのセリフかよ。もう聞き飽きたって。お前、本当にこのままでいいと思ってんのか?」
友人の言葉が、深く胸に突き刺さる。図星だった。このままではいけない。そう頭では理解しているのに、行動に移せない自分がもどかしく、情けなかった。まるで、深い泥沼に足を取られたかのように、身動きが取れない。友人の目は、俺の奥底にある不安を見抜いているかのように、真っ直ぐだった。
「なぁ、康介に合いそうなアプリがあるんだけどさ」
友人は、そう言って自分のスマホの画面を俺に見せてきた。画面に表示されていたのは、見慣れないアイコンと、簡潔な説明文。「マッチングアプリ」。そこには、華やかな宣伝文句と共に、幸せそうな男女の笑顔が並んでいた。まるで、俺とは無縁の世界がそこにあるかのように。
「これ、最近流行ってるんだよ。結構真剣な出会いを探してる奴が多いらしい。お前、真面目だから、こういうのでも良い相手見つかるかもな」
友人の言葉は、俺の心を揺さぶった。正直なところ、最初は抵抗があった。顔も知らない相手と、文字だけのやり取りで何を築けるというのか。まるで、見えない壁越しに手探りで相手を探すような、そんな不確かさに不安を感じた。詐欺や変なトラブルに巻き込まれる可能性も、頭の片隅をよぎった。しかし、友人の熱心な勧めと、「このままでは本当に一人ぼっちになるのではないか」という漠然とした不安、そして何よりも、この現状から一歩踏み出したいという小さな希望に背中を押され、俺は渋々登録することにした。冷えたジョッキを置いた手が、わずかに震えていたのを覚えている。それは、新しい世界への扉を開く、わずかな躊躇と、そして期待の震えだった。
帰宅後、俺は早速アプリをダウンロードした。スマホの画面に表示されたアイコンは、想像していたよりもシンプルで、拍子抜けするほどだった。しかし、いざ登録画面に進むと、俺は再び戸惑った。プロフィール作成の画面と向き合いながら、俺は困惑した。趣味は?休日の過ごし方?好きなタイプは?普段の業務では使わないような、自分の内面を表現する言葉を選ぶのに苦労した。まるで、これまで見て見ぬふりをしてきた自分の空っぽな部分を、改めて突きつけられているようだった。
「趣味……なんだっけ?」
自問自答しても、明確な答えが出てこない。仕事と家の往復。休日はただひたすら惰眠を貪るか、テレビを漠然と眺めるだけ。そんな自分を、どう魅力的に見せればいいのか。鉛筆を持つ手が震えるほど、自分の内面を掘り下げる作業は、まるで初めて自分と向き合うような感覚で、途方もない孤独感に襲われた。自己紹介文の欄に、何度も文字を打ち込んでは消し、また打ち込む。
「真面目な仕事人間です」
……これでは味気ない。
「休日は家でゆっくり過ごすのが好きです」
……地味すぎるだろうか。
そうして数日かけて、やっとのことでプロフィールを完成させた。ありきたりな言葉の羅列に、俺は小さくため息をついた。自分の魅力が、この文字だけで伝わるのだろうか。不安が胸をよぎる。
それでも、一歩踏み出したことに変わりはなかった。俺は、まるで宝くじを買うような、淡い期待を抱きながら、いくつかの「いいね」を送ってみた。画面に並ぶ顔写真の中から、直感で気になった女性たちをタップしていく。その行為自体が、どこか現実離れしているように感じられた。
そして、数日後、俺の元にもいくつかの「いいね」が届いた。通知が来るたびに、俺の心臓は小さく跳ねた。その中に、俺の目を惹いたのが「中西里奈」という女性だった。33歳、事務職。プロフィールの写真は、穏やかに微笑む彼女の横顔を捉えていた。ベージュのニットセーターに、髪は控えめに耳にかけている。窓から差し込む柔らかな光が、彼女の顔を優しく照らしているようだった。真っ白な肌に、どこか儚げな表情。派手さはないけれど、どこか家庭的な温かさを感じさせる雰囲気。風になびく柔らかな髪、そして、少しだけ俯き加減のその表情は、俺の疲弊した心をそっと撫でるようだった。まるで、長年探し求めていた安らぎの場所に、ようやくたどり着いたかのような感覚だった。

彼女のプロフィールには、こう書かれていた。
【中西里奈】
年齢:33歳
職業:事務職
趣味:カフェ巡り、読書、美術館巡り
休日の過ごし方:新しいカフェを探して散歩したり、家でゆっくり読書をしたりしています。たまに美術館に行って、心を豊かにする時間も大切にしています。
性格:穏やかで、聞き上手と言われることが多いです。人との出会いを大切にしたいと思っています。
一言:日常に小さな幸せを見つけられる方と出会いたいです。素敵なご縁があれば嬉しいです。
「穏やかで家庭的な雰囲気が魅力」――まさにその通りの印象だった。俺の指先は、まるで吸い寄せられるかのように、迷うことなく「いいね」をタップしていた。その指先が、わずかに熱を帯びているのを感じた。それは、これまで感じたことのない、淡い期待と、新しい世界への予感だった。里奈もまた、堅実な出会いを求めてアプリを利用していた。彼女のプロフィールからは、その真剣さがひしひしと伝わってきた。俺は、画面越しの彼女に、かすかな希望の光を見た。