序章:画面の向こうの君へ
「ちっ、また今日もダメか……」
俺、服部健、24歳。夢を追いかけるフリーターという名の、ただのフリーター。今日もアルバイトから帰ってきて、汗と油の染み付いたTシャツを脱ぎ捨てる間もなく、スマートフォンを手に取っていた。画面に映し出されるのは、お決まりのマッチングアプリの画面。スワイプ、スワイプ、またスワイプ。流れていくのは、色とりどりのプロフィール写真と、記号めいた自己紹介文。うんざりするほど同じような顔ぶれが並ぶ中で、時折、パッと目を引く女性が現れる。でも、大概は「いいね!」を送っても、何のリアクションもないまま沈黙が流れるか、あっても事務的なメッセージのやり取りで終わってしまう。
別に、真剣な恋がしたいとか、結婚したいとか、そんな大それたことは考えていなかった。ただ、日々の生活に刺激が欲しかった。アルバイトと、たまに友人と飲みに行くことの繰り返し。将来の夢とか、創作活動とか、そんな漠然としたものに囚われている割には、現実の俺の生活は驚くほど単調で、味気ない。そんな停滞した日常に、何か新しい風を吹き込みたい。気軽に始められるマッチングアプリは、そんな俺にとって、ある種の遊びであり、手軽な娯楽だった。
「どうせ、また誰とも繋がれないんだろうな……」
独りごちて、ため息をつく。今日のアルバイトは、夕方から深夜までのシフトで、さすがに疲労がピークに達していた。重い体を引きずるようにシャワーを浴び、コンビニで買ってきたビールをプシュッと開ける。キンキンに冷えた缶から直接流し込むと、喉を灼くような刺激が、少しだけ今日の疲れを癒してくれるような気がした。
ベッドに寝転がり、再びスマートフォンを手に取る。惰性でアプリを開くと、新しいメッセージの通知が光っていることに気づいた。こんな時間だし、どうせ業者か、間違って送られたメッセージだろうと、半分諦めながら開いてみる。
そこに表示されていたのは、「宮本遥」という名前と、一枚のプロフィール写真。写真の彼女は、肩にかかるくらいの黒髪を緩く巻き、少し控えめな笑顔を浮かべていた。大きな瞳の奥には、どこか芯の強さを感じさせる光が宿っている。服装は、シンプルな白のブラウスにデニム。奇抜な派手さはないけれど、その飾らない美しさに、俺はなぜか目を奪われた。
「…イラストレーター、か」
プロフィールに書かれた職業を見て、俺の目に留まった。イラストレーター。それは、俺が漠然と目指している「表現する仕事」と、どこか共通する響きを持っていた。俺は、いつか自分の手で物語を紡ぎたい、自分だけの世界を創造したいと願っていた。彼女もまた、クリエイティブな仕事に情熱を傾けている人間なのだろうか。
メッセージを開くと、そこには簡潔ながらも丁寧な文章が書かれていた。
『はじめまして、宮本遥です。プロフィール拝見しました。服部さんの「将来の夢」という項目に惹かれて、メッセージを送らせていただきました。私も同じく、表現の仕事に携わっています。もしよろしければ、少しお話しできませんか?』
その瞬間、俺の胸の中に、普段のマッチングアプリでは感じることのない、微かな高揚感が芽生えた。いつものように、ただ単に「可愛い子と繋がりたい」という、薄っぺらい感情とは違う、もっと根源的な、何かに触れたような感覚。彼女は、俺のプロフィールに書いた、ほとんど誰も触れてこなかった「将来の夢」という言葉に、興味を持ってくれた。それは、俺の存在そのものに、光を当ててくれたような気がした。
「宮本遥…さん、か」
指が勝手に動き出し、返信メッセージを打ち込んでいく。慎重に言葉を選びながら、俺は自分の夢に対する熱意と、彼女への興味を伝える文章を綴った。
『宮本さん、はじめまして。服部健です。メッセージありがとうございます!まさか、僕の夢に興味を持っていただける方がいるとは思いませんでした。宮本さんも表現のお仕事をされているんですね。ぜひ、お話してみたいです!』
送信ボタンを押す指が、ほんの少し震えた。こんなにも、誰かとの繋がりを期待したのは、いつぶりだろう。たかがアプリのメッセージ。されど、その一通には、俺の枯れ果てた日常に、一筋の光を差し込むような、そんな不思議な力があった。
翌日からのメッセージのやり取りは、俺の予想をはるかに超えるものだった。遥は、俺が送ったメッセージに対して、いつも丁寧で、そして情熱的な返信をくれた。お互いの夢や仕事への熱意を語り合う中で、俺は遥の繊細で豊かな感性に、ぐいぐいと惹かれていった。彼女が描くイラストのアイデア、表現に対するこだわり、そして、その裏にある並々ならぬ努力。彼女の言葉の一つ一つから、その真摯な姿勢が伝わってきた。
「服部さんは、どんな物語を創造したいんですか? 私は、人間の心の奥底にある感情を、色と形で表現したいと思っていて…」
メッセージの向こうから聞こえてくるような、遥の声が、俺の頭の中で響き渡る。彼女の言葉は、俺の創作意欲を刺激し、俺自身の夢をより具体的にイメージさせてくれた。俺は、遥に触発されるように、自分が創りたい世界観、登場人物の葛藤、そして、物語のテーマについて、熱く語った。まるで、長年温めてきたアイデアを、初めて誰かに打ち明けるかのように。
遥もまた、俺の真っ直ぐな情熱と、夢に向かって努力する姿に心を動かされたようだった。年齢は、遥が28歳、俺が24歳と、少し離れている。だが、そんな年の差は、俺たちの間には何の意味もなさなかった。夢を追いかける者同士、深い部分で共鳴し合っていることを、メッセージのやり取りから確信できた。
「服部さんの情熱、本当に素敵ですね。私も、負けてられないなって思います。いつか、服部さんの物語に、私のイラストで彩りを添えられたら嬉しいな」
そのメッセージを読んだ時、俺の胸は、期待と喜びで高鳴った。たかがアプリのメッセージ。されど、それは俺にとって、限りなくリアルな、未来への希望だった。
そして、初めて会う日がやってきた。場所は、新宿のカフェ。約束の時間の10分前には、すでに店の前でそわそわしていた。一体どんな女性が来るのだろう。メッセージのやり取りで感じた印象と、現実の彼女にギャップはないだろうか。そんな不安と期待が入り混じった感情が、俺の胸を締め付ける。
「あの…服部さん、ですか?」

優しい声に振り向くと、そこに立っていたのは、画面の中で見ていた遥そのものだった。いや、それ以上の存在感と、凛とした美しさを纏っていた。写真よりも少しだけ背が高く、すらりとした体躯。オフホワイトのシンプルなワンピースに、控えめなネックレス。俺の目を真っ直ぐに見つめるその瞳は、メッセージのやり取りで感じた以上に、知的で、そして少しだけ照れているようにも見えた。
「はい!宮本さん、ですね!…あ、遥さん、で良いですか?」
思わず、名前で呼びかけてしまった。メッセージでは「宮本さん」と呼んでいたのに。急な俺の問いかけに、遥は少し驚いたような表情を浮かべた後、ふわりと笑った。
「はい、遥で大丈夫です。服部さんも、健さんで」
その笑顔を見た瞬間、俺の緊張はすっと溶けていった。まるで昔からの友人のように、すぐに打ち解けられる予感がした。
カフェの窓際の席に座り、俺たちは互いのポートフォリオ(作品集)を見せ合った。遥が持ってきたファイルには、彼女が手掛けたイラストが丁寧にファイリングされていた。繊細なタッチで描かれた風景画、感情豊かな人物画、そして、幻想的な世界観を表現した作品たち。どれもこれも、彼女の感性と技術が凝縮されたものだった。
「すごい…!この光の表現とか、どうやってるんですか?」
思わず、身を乗り出して尋ねた。遥の作品に込められた世界観に、俺は純粋な感動を覚えた。まるで、彼女の頭の中にある宇宙を覗き見ているような感覚。
「あ、ありがとうございます。これは…」
遥は、少し照れながらも、一つ一つの作品について、そのインスピレーションの源や、制作過程でのこだわりを丁寧に説明してくれた。その語り口は、穏やかでありながらも、自身の作品に対する揺るぎない自信と情熱に満ちていた。
そして、今度は俺が、これまで書き溜めてきた物語のアイデアや、構想中のプロット(あらすじ)を熱っぽく語った。俺が語る将来のビジョン(展望)に、遥は目を輝かせながら耳を傾けてくれた。時折、頷いたり、質問を投げかけたりしながら、俺の言葉を真剣に受け止めているのが伝わってくる。
「健さんの物語、すごく面白いです!特に、この登場人物の葛藤の描き方が、本当にリアルで…」
遥の言葉は、俺の創作活動に対する自信を、強く後押ししてくれた。これまで、一人で黙々と創作活動に取り組んできた俺にとって、自分の作品を理解し、共感してくれる存在というのは、何よりも得難いものだった。
アプリでの出会いという枠を超え、俺たちの間にはクリエイティブなパートナーシップが芽生える予感がした。それは、単なる恋人関係とは異なる、もっと深く、そして刺激的な繋がり。互いに高め合い、共に成長していく喜びを、この時すでに俺は感じ始めていた。
「遥さん、もしよかったら、また近いうちに、ゆっくりお話ししませんか? もっと色々、お互いのこと、創作のこと、語り合いたいです」
帰り際、俺は思い切って遥を誘った。今日という日が、これで終わってしまうのは、あまりにも惜しかった。
「はい!ぜひ。私も、健さんとお話しできて、すごく楽しかったです」
遥は、にこやかに頷いてくれた。その笑顔は、まるで春の陽光のように温かく、俺の心をじんわりと満たしていく。
カフェを出て、駅まで並んで歩く。他愛もない会話をしながら、時折、遥の横顔を盗み見る。サラサラと揺れる黒髪。風に揺れるワンピースの裾。そして、彼女から漂う、ほんのりと甘い香り。俺の意識は、知らず知らずのうちに、彼女の存在へと吸い寄せられていく。
「じゃあ、私、ここで」
駅の改札前で、遥が立ち止まった。名残惜しい気持ちでいっぱいになりながら、俺は頷いた。
「うん。今日は本当にありがとう、遥さん。また連絡するね」
「はい、健さん。ありがとうございました」
遥は、もう一度にこやかに微笑むと、改札の中へと消えていった。彼女の姿が見えなくなるまで、俺はそこに立ち尽くしていた。
初めて会った遥は、メッセージのやり取りから想像していた以上に魅力的だった。彼女の知的な雰囲気、繊細な感性、そして何よりも、クリエイティブな仕事に対する真摯な情熱。どれもこれも、俺を惹きつけてやまないものだった。
その夜、ベッドに入っても、俺の頭の中は遥のことでいっぱいだった。彼女の笑顔、声、そして、あの時感じたほんのり甘い香り。俺の体は、まだ遥の残り香を求めているかのように、熱を帯びていた。
「くそっ…」
思わず、シーツを握りしめる。これは、ただの「創作仲間」としての感情なのだろうか。いや、それだけでは片付けられない、もっと生々しい、男としての欲求が、俺の胸の中に渦巻いているのを感じた。
俺は、遥という存在に、心の底から惹かれていた。彼女の才能に、知性に、そして、その美しい肉体に。オンライン上のイメージと、現実の彼女。そのギャップは、遥の場合、良い意味で俺の予想を裏切ってくれた。いや、良い意味というよりは、俺の「男」としての感情を、これまで以上に強く刺激した、と言った方が正しいだろう。
マッチングアプリで出会ったはずなのに、俺はもう、遥との関係を、単なる「遊び」として捉えることはできなかった。彼女は、俺の心を、身体を、そして、未来の夢を、完全に支配し始めていた。
俺の人生に、ようやく本物の「刺激」が訪れたのだ。だが、この刺激が、一体どこへ向かうのか。俺にはまだ、知る由もなかった。